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THINK ABOUT SOMETHING.

発想重視か技術重視か

相模ゴムのLOVE DISTANCEというCMがある。個人的には素晴らしいCMだと思うけど、これを発想重視の作品と定義した場合、その対極にあるのは技術重視の作品だろう。


この二つは何が違うかと言うと、着想を得た時点で極論すれば「誰にでも造れる」のが前者なのに対し、技術的高みからしか見えない境地の作品を造る=素人は手を出せないのが後者、ということになる。そしてどちらの方が本場的かと言えば、やはり後者だと思うのだ。


ゲーテ的に言えば違うんだろうけど、ピアノの理論的に言えば同視野の発想は枯渇する。翻って技術的高みからのみ生じる最先端の発想は、いわゆるブレイクスルーというものの呼び水になる。故横井軍平氏は「枯れた技術の水平思考」という名言を残しているが、そこからブレイクスルーは生まれない。


ピアノは誰にとっても88鍵=同視野だが、技術的高みというのはそれを89鍵や90鍵に拡張する=異視野を生む呼び水だ。そしてその新鍵盤も瞬く間に共有され、同視野まで格下げされるんだけど、最先端を切り拓いているのはやはり技術者だと思うのだ。


だから実態は知らないけど、国内のミュージッククリップと海外のミュージッククリップを比べれば、後者の方が強いイメージがどうしても拭えない。ゲーム業界がそうなりつつあるのを目の当たりにしているからだ。ゴッドオブウォーは日本のスタジオではおそらく造れないし、スカイリムもそうだと思う。


但し技術的高みから生じる最先端の異視野が、そこに到達した同一人物によって理想化されるとは限らない。それはある。だからゲームクリエイターは技術一辺倒に陥っても問題だけど、そこで闘おうとする心理自体は実は否定できないかもしれない。例えばスクウェアとかカプコンとかがそう。


要するにクローバーフィールドは二度起こらない。少し言い過ぎかもしれないが、最低でも同視野から新機軸が連荘することはない。技術競争は地味な速度で鍵盤数を増やし続けるが、そのスピードは同視野が枯渇する速度よりも確実に遅いので、基本的にそこ(技術競争)に群がっておくのが「筋」だと思う。


このスピードがもし逆転していた場合、枯渇していない所から新機軸を探し求める、取りこぼしをチェックするという発想は妥当だけど、実際はそうじゃない。現実的には取りこぼしをゼロに抑えて次の段階(技術)に進むということはあり得ないけど、馬券的に言えば技術に流れる方が本命なのは間違いない。


任天堂オールドスクールなイメージがあるけど、案外最先端という無形に一定のモデルを与えるのが上手い。携帯ゲームならではのポケモン然り(画面分割というモデルはMO/MMOの祖)、3D黎明期の時オカ然り(Z注目は今やデファクトスタンダード)。


この逆に枯渇した砂漠で何ができるかというと、ガラパゴス携帯みたいなことだ。1から10まで要素が出揃っているモノがあって、ある者がそこに11を足し、またある者がそこに12を足すという流れからは、根本的な変革など起こる訳がない。


それに対し1から10をAからJに置き換えるのが、いわゆる「ブレイクスルー」だ。この場合「数字」と「英字」という根本的な変化が起きてる訳だけど、それを成立させる特異点こそが技術的高みであり、パラダイムシフトということになる。


枯渇した所から何かをサルベージするという発想の背景には、リーダーシップを発揮できないことへの恐怖があるのかな、とは思う。枯渇しているということはそのエリアのカノンが出来上がってる訳だから、そこを踏襲しておけば大きく外さないだろうという算段が、裏にある。


でも当然大きく当たることもあり得ないし、このやり方ではユーザーの想像力と大差がなくなってしまう。つまり、10の次の11なんて誰でも想像できてしまう。だから技術的高みをローカライズする方が、よっぽど夢があるし、ユーザーをいい意味で裏切れる。


まあ1から10があって、それに11を足すという創作は、実際には中々できるものではないけど。携帯電話の場合はともかく、ゲームだと全踏襲は続編だけに許された権利だし、そこを正当化しようと思えばベルセルク方式しかない。つまり、元ネタを大幅に超えるか、あるいは変えるしかない。


大幅に超える、変えるということは最早オリジナルと言い換えても問題ないし、しかし数字から英字に変わるような変化でないと、その領域には到達し得ない。だったら11を取りに行く思考は、結局無効だということが分かるだろう。


即ち『11を取得する前提条件』が『1から10をAからJにせよ』ということは、前提条件を満たした時点で11はもうあまり必要のない要素になってしまうからだ。良くも悪くも骨組みを根本的に違うものにする訳だから、それ自体で価値が輝き始める訳だ。


だから結局11を取りに行くのではなく、AからJのパラダイムシフトを狙うのが「筋」であり、そしてその為には原則として、技術的高みに立会い続ける必要がある訳だ。その高み未満でのシフトは金脈的に枯渇しているのが目に見えているし、余りものの亜流にしかなり得ない。


僕の目指す創作スタイルは大きい変化で大きく動かすよりも、小さい変化で大きく動かすというものだから、今日のツイートとは相反する所もあるんだけど、一つの考えとしてこういう芸術論もアリかな、と。