インスピレーションのメカニズム
久々に昔のツイートを読み返して思ったことを書く。「インスピレーション=あり得ない選択肢にリンクできる構造」というツイートがあったのだけど、この書き方は少し語弊があり、あり得ないものはあり得るものでなければならない。
更に言えば「あり得ない選択肢を本命の選択肢と繋げる」のがインスピレーションの一形態、みたいなことを過去に書いてるが、これも正論だけどやはり語弊がある。だから少しだけこれらのツイートの補足をしたいと思う。
おそらくだけど、僕がこのツイートをした時に想定していたのは、旭化成のマジックカットだ。弁当などに入ってる調味料の小袋の、どこからでも切れるタイプのアレだ。僕はこのマジックカットの発明の過程を偶々テレビで見ていて、そこから上記ツイートのヒントを得た訳だ。
今となっては放送内容を覚えてないんだけど、無数の微小な穴をコンマ数ミリ間隔で開けるという構造だけは覚えている。普通のタイプの醤油の小袋って切れ目以外の所から千切ろうとすると、完璧には裂けないがほんのコンマ数ミリなら裂くことができ、そのコンマ数ミリを応用した発明だと思う(多分)。
でも「どこからでも切れる小袋を造ろう」と出発して、誰かが「小袋に無数の微小な穴を開けてはどうですかね」と言って、「それだ!」とは絶対にならない。結果的にはそれが答なんだけど、発明の初期段階においては素通りして当たり前の選択肢だ。
何度も言うけど、インスピレーションというのは洞察の果てに起こるものだ。論理的に考えて、論理が終わる所に存在するものだ。そしてこのテーマの場合「カットする辺をヤワにしよう」と考えるのは凄く自然で、例えば布は手で千切れないけど、ティッシュは手で千切れる訳だ。
でもそれだけでは単純な問題が発生する。「小袋を密閉し、且つどこからでも切れる」という商品条件の、前者が満たされない訳だ。だから定義を少し変えて、「小袋を密閉し、且つ少しの力でどこからでも切れる」という商品条件にする必要がある。
そうやって「ヤワにしよう」という発想の方向性が変わる。布より薄い紙、紙より薄いティッシュという具合に、厚みを薄くする方向は、密閉するという商品条件からしてちょっとややこしいので、パスされる。だから「人の手が加わらない限り切れない、しかしどこからでも切れる」という方向性になる。
簡単に言えば「特定の動作でのみ切れる」という方向性になり、この特定の動作というのは「それぞれの人差し指と親指でつまんで前後に引っ張る」という動作のこと。ここまで問題をフォーカスできれば、その前後に引っ張る動作をすることで何が起きるのかについて、検証する余裕も生まれる。
すると「この動作をすると小袋は必ずコンマ数ミリ裂ける」ということも分かり、そこまで来れば「そのコンマ数ミリ同士を穴と穴で連鎖させればいい」という結論も導け、当初はあり得ない選択肢だったものがあり得るものに化ける訳だ。
これらの一連はぜーんぶ繋がっていて、その一連を経た者にのみ現われるクローズドなリンクが、「微小な穴を無数に開ける」という結論なのだ。初期段階でそのリンクを持ってきても、無差別にリンクされたリンクフリー状態だから、テーマとのクリティカルな相関性という肝心要のリンクが隠されてしまう。
要するに「ヤワにする」という発想に異論は誰も挟まない。だけど「微小な穴を無数に開ける」という発想には、誰もが異論を挟む。この中間を繋ぐものが「洞察」であり、それがクローズドなリンクをジャストフォーカスする訳だ。
異論を挟む者はそれがフォーカスできていないに過ぎない。つまり、リンクフリーの内の最重要リンクに気付いていない。逆にクローズドなリンクが立ち現われた者は、そのリンクしか見えていない。つまり、特定の一部分の近似しか見ようとしていない(ゆえに閉じられている)。
即ちそれがインスピレーションであり、本命とは「一番あり得る選択」のことであり、その本命の特定の一部分、言い換えれば最も本質的な一部分の近似を探す旅に出るのが、「悩む」という行為であり、それを突き詰めると出発点の人には「あり得ない」となる。
要するに思考が「閉じられている」からで、答だけが急な交通事故みたいにやって来る訳だ。でも実際には本命の近似の近似、その近似……という連鎖作用でしかないし、それがインスピレーションの正体で、一般的には、この連鎖の段階を一気にすっ飛ばすのが通説とされている。
でもここまでの構造が分かれば、無段階的なインスピレーションが出て来ない人でも、自らの洞察でインスピレーションを取得することはできる。それは間違いない。というより通説的なインスピレーションよりも、段階的ないしは洞察的なインスピレーションの方が実際的にはほとんどだと僕は思います。