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THINK ABOUT SOMETHING.

偶然性のスタートライン

コピーライティングにおける必然性というのを考えてみた。これは作曲でも同じことが言えると思うけど、素敵な言葉(ないしは旋律)というのは普遍的であればあるほど誰の目にも明らかに素敵であり、それは他者が作ったものでも自分が見つけたものでも同様に感じる筈。一種のセンスオブワンダーだ。

 

例えば長編小説とか交響曲とかは、明らかに才能の領域だと思う。明らかに作れる人と作れない人に分かれるからだ。でもごく短い言葉や旋律であれば、センスオブワンダーに響く普遍的なものを誰もが作れる可能性があるかもしれない。これについての必然性というのを考えてみよう。

 

先ず長編小説や交響曲を作れる人達が何らかの必然性の上に成り立っている、というのは想像に難くない。逆にそれらを作れない人達がそれらに挑む時、偶然性の大海でまるで泳げない醜態を晒すのは明らかだが、その差はおそらくディシプリンであり、それが必然的に大海を渡り切る作法に繋がってる訳だ。

 

でもコピーライティングの場合、そんな高尚な必然性がなくてもちょっとした閃きをフレーズにしたりして、誰でも名コピーは作れると思うのだ。その場合その名コピーは偶然的なものか必然的なものか、ということを考えてるんだけど、これが中々まとまらない。多分必然性の介入はできると思うんだけどね。

 

打席に立たなければヒットは打てないけど、本当にクリティカルなもの、即ちホームランは立つだけではほぼ成立しないと思う。ということは本当の名コピーは恣意ではほぼ成り立たないということで、そのヒットとホームランの溝を埋める必然性とは何なのかということについて、僕なりの答を出したいのだ。

 

僕のケースで言えば、創作でこだわってるのは『取深捨速』で、取るべきものは可能な限り深く追求し、捨てるべきものは可能な限り速やかに捨てるということをやっている。この切り替え速度と追求速度を上げることが、僕がかねてから言っている『創作はスピードだ』ということに繋がるのだ。

 

これはもちろんコピーライティングにも応用できるし、一つの必然的な審美眼な訳だ。センスオブワンダーが目的地だとして、この審美眼は検索の作法であり、偶然性を征してそこに辿り着く為のものだ。でもGoogleで考えれば分かりやすいけど、曖昧な検索でドンピシャなものに辿り着くこともある。

 

この曖昧な検索を『恣意』と読み替えるなら、それは誰にでも可能だから、コピーの世界は誰にでもチャンスがある。しかし他にも何らかの必要なものがあるように思い、例えば情熱を恣意に加算したり、例えば原体験を恣意に累乗したりして、そうすることで初めて恣意が形を成すような気はする。

 

そういう『無学の作法』を恣意に効かせないと、やはりコピーも生きてこない。コピーの場合『思いの丈』でもヒットとホームランの溝は埋めれるし、その必然的な前提が偶然的な一回性に帰結する。そして全回的なところ(我が文法)からの乖離がそれであるならば、コピーとは小説のラストの一行に等しい。

 

だから結論としては、必然性で全体を覆うような一回性はあり得ない。但し全回的なところが洗練されていればいるほど、一回的なカタルシスをあちこちで絞ることが可能になるし、即ち創作のプロセスは初動から終動に向けて偶然的になり、全回的なところの洗練はその終動との距離を詰めるのである。

 

いや、厳密にはこうか。創作は始まった段階から偶然的で、全回的な領域――何度でも再現できる領域――が偶然性のスタートラインを終点へと詰めるのだ。そして偶然性の最終的な帰結は一回性であり、繰り返すことのできる領域の対岸であり、再現性の二度とないものなのだ。

 

思いも寄らないものはそれ自体で掴み取れるものではなく、コピーなどの短文系なら思いの丈、小説などの長文系ならそれプラス洗練された全回性によって、ようやく掴み取れる可能性が出てくるのである。但し前者でも瞬発力が要求される場合は全回性が要るし、それが例えば松本人志ではないかと思うのだ。

 

要するに、偶然性のスタートラインからして既に一回的で、発想の飛躍も本人からしたらそんなにない筈なのだ。あれは本当に見事だと思うし、創作における一つの理想的な姿だと思うけど、瞬発力を要求されない分野、取り分け短い分野ではそこまで行かなくても答にかすることはあると思うな。