打率の哲学
さっきのつぶやきだが、少し誤りがあった。一回性への到達というのは『絞り切る』『力尽きる』ということだから、偶然性のスタートラインを終点へと詰める、というのは誤りで、全回性という脱力状態から一回性への伸び代は一定の筈だ。
厳密に言えば他者から見た一回性との間合いは詰められるが、即ち他者が力尽きるところを全回性でカバーできる可能性はあるが、その本人の一回性は常に一定の前方にある。ゆえに全回性それ自体が一回性を含有することはあり得ず、そこから創作する(絞る)ことで初めて力尽きることができる。
他者が力尽きるところを何度でも再現できるところにし、そこから今度は自分が力尽きるところを、また何度でも再現できるところにする。全回性と一回性のスパイラルだ。これには当然限界があるけど、それが個人的一回性に留まらない王者的一回性に通じる最大の道だ。言わばオリンピックだ。
今でもそうかもしれないが、僕の昔のつぶやきは散々なデキだ。当時は満足していながらも、今見返すとそう感じる訳だ。でもその一つ一つは一回性(絞り切り)の体験に繋がってて、それによって全回性もまたアップデートされていった訳だけど、これは厳密競技と違って『(続けられる)楽しい汗』なのだ。
これは曖昧な想像だけど、全回性から絶縁されたような一回性への到達がなければ、全回性はアップデートされない。これは運動におけるオールアウトに通じるものがあり、その閾値を超えない運動はバルクアップ的には期待できない。だから何らかのカタルシスを感じるまで絞り続けなければならないのだ。
打率というのは即ち、必然率(全回性の占有率)ということなんだと思う。全回性と一回性の中間は二回性、三回性、四回性と続くが、この数字が高いほど再現性が高く、全回性に近付く訳だけど、それは逆に言えば全回性が洗練されていればいるほどヒットやホームランの再現性も高くなるということなのだ。
もう少し厳密に言うならば、仮に万回中万回再現できるものを全回性と呼ぶとして、9999回から1回の再現性のマッピングはそのままでより上位の結果に貼り直していく、即ちヒットが2000のマッピングにあるならば、それを一つシフトして2001に貼り直す、それが打率を上げるということだ。
そしてその結果として1回の再現性、即ち一回性の飛距離も一つシフトする、即ち伸びることになるし、以前9999回の再現性だったものは、これも一つシフトして全回性に含有されることになる。少し単純化し過ぎてる気もするが、例えばピアノ演奏で考えれば、1/9999のミスがなくなるという訳だ。
厳密には全回性を広げることで諸々の回数性を高度な方へシフトさせる、という流れなので、順序が逆なのだが、こういう次第に高度な結果が出せるようになる流れを、エロスの純粋なベクトルと、原体験によって紐付けられた軌道と、目的論的究極の芯とが絡まるところで実践すべきなのである。
まあ以前のオールアウトのゾーンと重複しておらず、それがより前方にあるならば、別に二回性や三回性でも構わない。毎回僕が一回性を体験していたというのは多分、幻想だし、しかし現に今ある自分を見つめ直すと、やはりオールアウトの更新自体はできていたみたいで、目標はそれで十分なのだ。
いや、この比喩も違うな。改めると一回性への到達というのは『多面体の1が出るまで試行する』ということで、その多面性を上げるほど一回性の定義は厳密化されるが、十中八九失敗するけど一、二回は成功する、というものでも十分で、その時の恍惚が『勘』を形造り、マッピングシフトを起こすのである。
運が必然を形造り、必然が運を誘い込む。運を使い切った恍惚を何度でも再現できるところにし、何度でも再現できるところから運を誘い込み、それらを繰り返す。この全回性と(一回性を理想とした)数回性のスパイラルが勝負の勘を形造り、全てのマッピングを繰り上げる、即ち運を味方に付けるのである。
ゲームで例えるのはどうかと思うけど、つぶやきの一つ一つがFF3の多段ヒットであり、その一つ一つにクリティカルが宿り得るというような、そんなイメージで今日の書き込みを見返すと想像しやすいと思う。そしてその断続的なクリティカルが『勘』となり、より連続的になっていくのが理想なのだ。