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THINK ABOUT SOMETHING.

光のデフューズ

原体験的紐付けにはポジティブとネガティブがあるけど、シンボライズ(普遍性)からデフューズ(一回性)までの射程で後者と判定するに十分なのは、ネガティブであることが多い気がする。これは負の理論にも繋がり正の要素には限界がある、即ち判定不十分になる(普遍性に回収される)という訳だ。

 

もちろんそこで倒れてしまうこともあるんだけど、例えば病理性の内在もネガティブの一種だ。それがエロスそれ自体では達し得ない高みへ上方修正する訳だけど、天真爛漫を地で行くような人はその心境に達し難く、エロスそれ自体で完結する訳で、そこにネガティブが脅威的であることの根拠がある。

 

そう考えると天真爛漫というのは『天然のエロス・サティスファイ』を意味し、ポジティブの究極な訳だけど、そこから離れれば離れるほど、即ち天然で居られなければ居られないほど内なるグラデーションが目を覚ます。それは逆に考えれば『エロスの充足率』と『原体験の遭遇率』は反比例するという訳だ。

 

僕は昔『それ以外の全てを忘れて、それが輝くのであるならば、それがアートだ』という言葉を考えたけど、これは『光の無限性』の比喩で、その無限の渦中で諸々の一回性=デフューズが生じざるを得ず、しかし天真爛漫はある種シンボルで止まってるというか、この言葉の対極に位置するものだと思う。

 

ちなみに諸々のデフューズという言い方をしたのは、性癖が一元的なものではないからだ。セックス的なデフューズであれパラノイア的なデフューズであれ、光のデフューズにはあらゆるそれが含まれる。太陽の名の下に、万人がそれぞれ異質な形で照らされるが如くだ。即ち光の無限性と拡散は相即する訳だ。

 

そしてこのデフューズにも打率があり、この時全回性に当たるものはおそらく『セックスシンボル』だ。それはステレオタイプな理想像であり、ある程度までは興奮するけど、決してクリティカルではなく、そこからその興奮の根拠となった要素を軸に、試行を繰り返したところに一回性への夢が芽生える訳だ。

 

また一回性が飛距離の究極として、この一回性は変質を余儀なくされるものである。例えば最高の射精ができたとしても、次にはその対象は一回的ではなくなって数回性の飛距離にまで落ちぶれるし、しかし一回性が消費されてなくなるのではなく、代わりに一回性が変質し、別の何かが浮上するだけなのだ。

 

その一回的なものが変質に変質を重ねた究極が『フェティシズム』であり、しかし繰り返せば繰り返すほど浮き沈みする一回性の範囲は決まってくる筈で、そこから自我をカテゴライズもできるし、精神的自画像のセル画とアイデンティティーのレイヤーも見事に一致していくのである。

 

光の無限性は、拡散された全ての回数性の光束の集合でできている。その中の一回性の近似こそが目的論的究極の芯を形造り、歴史を刻んでいく。世界はフェティシズムで回っており、歴史的世界像のセル画とそのアイデンティティーはレイヤー的に一致していく。それが喜劇か否かは、神のみぞ知るのである。