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THINK ABOUT SOMETHING.

アート・ビル・ソリッド

虚無はあの手この手で同一化を阻み、不一致を好むが、それが神の仕掛けた最高の戦場であり、然る修羅巷の不可抗力の究極に、究極だからこそそこだけに唯一者の王座が存在するのである。しかし昨日も述べたように不滅の王座などあり得ないから、逆に言えば確率的な揺らぎがそこに認められる訳だ。


最高の戦場のカオティックな部分はこの確率の揺らぎにあって、ある意味でその裾野のランダムウォークは秩序の属性に包括される。前者はほぼ確定的な必然性の視座に立っていて、それが崩れた時の美学的振幅が尋常ではなく、ドラマティックだが、後者は最初から崩れてしまってるだけに過ぎない。


以前つぶやいたような機械が描く奇跡的確率としての純文学は現実的には存在しないものであって、即ち確率の揺らぎというのは頂部に向かって巨大化し、底部に向かって最小化するもので、それは決して反転ではない。言わば無限を含有しながらも、そこに溺れる連中の確率論は総じて死んでいるのである。


対戦的競技で勝敗が決するということは、虚無を忠実に演じた者同士が闘って、その美学的累積の諸々が崩壊するということに他ならない。判定まで持ち込んでも必然性の妥当性を見せられるだけだから、それはつまらない試合ということになるし、そこが記録的競技との最大の違いなんだと思う。


繰り返しになるけど、映画でよくありがちな『権力が崩壊する時の郷愁』というのは、必然性を絞り切った最後の最後に『裏切られる』ことによって完成し、決して『見放されている』状況からは成立しない。確定的なもの、絶対的なものが秩序を極めることで無秩序に及ぶというような逆説がそこにはある。


秩序を極めたものに内在する無秩序の可能性が露見された時、それは直ちにアンフォルメルと接続される。それはソリッドなものがリキッドなものに融解するような転換点であり、それを死に物狂いで隠すのがあらゆる競技に通底する美学的真理だ。そう、僕にとってのアンフォルメルはリキッドな究極なのだ。


可能性を確定するのがソリッドな行為なら、可能性の海に溺れるのがリキッドな行為なのだ。それは即ち流動的ということであり、流転の最中にあるということであり、彼の王座の対極にある底辺に相当するが、翻って唯一者は可能性を確定することで虚無を我が物にしようとしているのである。


不随意的なもの――可能性の謀反――を我から追放し、随意的なもの――可能性の征服――で自身を構成する。しかし絶対なるものは存在しないから、可能性の残滓が必ず残り、そのゼロに抑えられないものを徹底的にゼロにした虚無的確率が露見された時、それは奇跡的なショーになるだろう。


初めからそれを演じるのはパフォーマンスであってショーではない。即ち確率的にはゼロの真逆にあり、随意的にそれをやっているに過ぎず、奇跡でもなんでもない。唯一者がそれを露見することはソリッドな崩壊であり、反意志的な揺らぎとして生じるのであって、『見放しの地』からはそれは芽生えない。


対戦というのは即ち、究極的なところで言えば相手の虚無信仰の裏切りを招く行為であり、意志の限りにおいて虚無を演じながらも、裏切られざるを得ない状況に相互に追い込む行為である。それは即ち勝利の女神との三角関係であり、絶対がこの世界にはないからこその波乱を含むドラマなのだ。


絶対的なものも不可抗力の毒にやられるのは時間の問題だ。不滅なんてない。変わらないものもない。僕達は流動的で、王者ですらも然りで、万物は流転するのだ。その現実を据えた上でその真逆を目指す者を僕は尊敬するし、あらゆる人間は本来ソリッドでなければならないのである。