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THINK ABOUT SOMETHING.

遠くか否かが問題なのだ

無限性原理が導くのは『類似の最終的な無効化』であり、即ち類似は問題ではなく、遠くか否かが問題なのだ。例えば角度が1度違う直線が二つあるとして、それらはやがてお互いの隔たりをとてつもなく大きくしていくだろう。これはリニアだが、初期値鋭敏性を得る為には非線形のアトラクターに乗るべし。

 

何を以って非線形的かという判定をする時、偶然性をその基準にすることができると思う。例えば僕は日常であまりはっちゃけないが、これは必然性を大きく取っている証拠、なるべく予定調和で動こうとする証拠であり、逆に予定できない偶然性に身を委ねた人間の方が満面の笑みも出るのである。

 

ルーチンの枠外が偶然性だとすれば、そこにこそ現象の巨大化の可能性が生じる。ルーチンにドラマは何一つ生じないとしても、その枠外では何一つ確定できない何ものかが渦巻いている。そこに筋を通さなければアンフォルメル(純粋偶然性)だが、偶然性に筋を通せばそれはドラマに変わるのだ。

 

ルーチンの枠外の遠くに行けば行くほど、コントロール可能な最大値まで遠くに行くほど、ドラマ――現象の振り切れ――の大きさもまた大きくなる。コントロール不能な外国語での笑いは松本にも無理だが、コントロール可能な詩的言語=アンチルーチン的言語のアンチ性を高めるほどに、笑いは大きくなる。

 

偶然性に筋を通すというのは、言い換えればアンチルーチンが、あるいはヒューマニティーが未踏の因果律を成すこと、有意な何ものかに姿を変えること、バタフライエフェクト的に言えば竜巻に到ること、因の渦巻くアンフォルメルを超えること、果の彼岸に達すること、そういうことに他ならない。

 

偶然性はそれ自体では単なる『因』であり、『果』に達することでアンフォルメルを終える。因ばかりが不発的に断続するのがアンフォルメルであり、それが未踏の果に達することがドラマであり、この既視感とドラマの大きさは反比例する。そして既視感の大きい因は既視感の大きい果にスナップされやすい。

 

既視感の小さい因、即ち日常的言語から隔たった詩的言語は、スナップ先の果が極めて深遠である。言い換えればアンフォルメルに飲まれやすい絶海を目指せば目指すほど、果に達した時はドラマチックなのだ。ゆえにスナップ先が本来深遠であるところを間近に感じるところ、そこが偶然性の理想郷と言える。

 

因果が同じ岸にあることが必然性ならば、因果が此彼の岸に分たれていることが偶然性であり、その彼岸が隔たっていればいるほど達した時はドラマチックだが、そこはアンフォルメルの絶海であることを忘れてはならない。果に対して前者が惰性なら後者は運動であり、その遠くへゆけるのは万人が然り。

 

エロスの深みを極めていけば、即ち偶然性の理想郷で果の味を占め続ければ、此彼の振り幅はそのままに深く遠くスライドされ、即ち難易度は変わらないまま深く遠くへゆけ、その彼岸はアトラクターに乗らない者の此岸から遥か彼方まで隔たることになる。これは絶対性原理とは違う意味での『爆発』である。

 

絶対性原理の爆発はアトラクター自体がその限界を規定したもので、継続を前提に万人に約束されたものだ。しかし上記の爆発は個人個人に限られた鋭い爆発であり、ここにアトラクターの選民思想が生じるが、この場合の同アトラクターの初期値差も絶対性に帰結するのは絶対性原理によって保証されている。

 

即ち絶対性原理による絶対性の保証と、その絶対性の初期値鋭敏性の現れの獲得、この両立が今日のツイートで僕が目指してきたものであり、前者は全アトラクターに保証されているが、それを後者に高める為にはアトラクターを絞る必要があり、それが偶然性の理想郷というものに他ならないのだ。