BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

第53回宣伝会議賞に際し思ったこと

最近、第53回宣伝会議賞の作品を考えてばかりいる。

 

何年か前に確か15件ぐらい出したのかな、それが全部玉砕したのもあって、その翌年とかは素通りしてしまったのだけど、今年はまた頑張ろうと思って取り組んでいるところだ。

 

そこで思ったのが、言葉に対する感動の閾値がずいぶんと上がっているな、ということだ。

昔なら「これ送りたい!」という感じで拾ってしまうようなコピーも、今は余裕で捨てまくっている。

逆に言えば多作は不可能だけど、ほんとうに心からいいと思えるものだけを残せるようになった気がするのだ。

 

さて、独り言で終わりそうな気もするが、この『捨てるときは素早く、取るときは奥深く』を基本態度に据え、いくつか作品を書いてるうちに思ったことでも書こう。

 

寺山の言葉で『天才だけが遠くへゆける』というものがある。

『コピーライティング=誰にでも手の出せる創作』とするのは言い得て妙だが、ファイナリストぐらいの段階になると『誰にでも』という訳にはいかない。

つまりこの言葉は、結局のところコピーでも同じように当てはまると思うのだ。

 

ただ、他の創作の例えば小説なんかと比較して、コピーには『言葉の本質的な部分は身近』という特徴がある。

つまり言わんとしていること自体は遠くなく、但し『遠くない=当たり前のことでしかない』ということでもあるから、それを謎かけっぽくしたり、見る角度や言い方を独創的にすることでオチを伏せ、読後にカタルシスを与える。

当たり前の日常が構図の切り取りやそのエディットによって、素晴らしい写真に昇華されるようにだ。

 

一番注意すべきだと思うのは、多分、コピーを読んでいる途中で最後までの内容を先読みされてしまってはいけない、ということで、先読みできてしまうということは『抜け』がないのだ。

誰にでも思い浮かぶような内容だから誰にでも先が読めてしまう、というところから群を抜いていない訳で、主語と述語の関係が説明に終始するようなコピーにこれは多い。

 

例えば『AはA’です』とか言われても、ダッシュがついただけでは何の驚きもないし、誰にでも先が読める。

これを『AはZです』ぐらい言い切ってしまって、それでもイコールが成立するような言葉のエディットがあれば読後のカタルシスが起きる。

この場合のZというのは『Aとは全く違うもの』という意味ではなく、文面がAの近似からはかけ離れているのに意味合いは同じ、というようなもので、文面上の近似というのは『Aを易々と想起できてしまう内容』というようなものだ。

具体的にはAが名詞なら名詞で、動詞+名詞なら動詞+名詞で、形容詞+名詞なら形容詞+名詞でイコール化し、つまりAと同じ品詞構成でイコール化し、且つそれが初歩的な類語であるとかね。

 

過去の受賞作の『家は路上に放置されている。』も前後が説明関係なんだけど、これは『着眼点の驚き』があるからこそ成立していて、つまり『Aは~です』の述語は言い方ひとつではないし、それを見事な言い方にまで昇華させている。

つまり『家(A)』の説明を別の品詞構成で閉じている上、それが『家』を易々と想起できてしまう内容ではないから(『家』の部分を伏せたら謎かけになり得る)、『(この説明は)Z的』ということなのだ。

でも上述した『言葉の本質的な部分』はこのコピーでも身近で、『家はずっと同じ場所です』という当たり前のことを見方(自分の場合グーグルアースを想像する)や言い方を変えることで当たり前にさせない訳だ。

 

また、偶数的なコピーも先を読まれることが多い。

言わば『恋はA。愛はB。』とかそういう類のコピーだ。

この構成の時点で『愛は』の後にAに似つかわしくないものを持ってくることは先ず読まれる。

同時に『かけ離れていればいるほどなるほど感が出る』というのも、まあ結局は読まれるので、Aの対義語まで行かなかったとしても、少なくともAの類語周辺は線から消える。

もし『恋は仮初。』と来たら、もう『愛は永遠。』になるのはほぼ鉄板な訳だ。

 

上手く言葉にできないのだが、ただの左右対称になっているだけで、左を読めば右が、右を読めば左が読めるというこの偶数構成は、読後の驚きが起こりにくい(起こらないとは言わない)。

『対義語、対義語。』という構成だけでなく、『類語、類語。』という構成でもこれは同じことで、これを『対義語、対義語、非対義語。』や『類語、類語、非類語。』という奇数構成に変えれば、最後の奇数がオチになる訳だ(左右対称が破壊される)。

これについては『おとなもこどもも、おねーさんも。』が一番分かりやすいと思う。

 

 確かビートたけしが言っていたことだが、映画を撮り始めた当初勝手が分からないから、とりあえず今まで観てきた映画で「これはしてはダメだ」と思ったことを、全部避けて撮るというやり方をしたらしい。

『名コピーの作り方』とかいう本が仮にあったとしても、名コピーが一回性なら方法論も一回性のはずで、つまりそこにはもう旨みがない。

だから唯一できることは、ビートたけしのように『禁則を決めることで打率を上げる』ということだと思うし、これってあらゆるスポーツの基本なのだ(脱線するから説明はしない)。

 

結論としては、本質は常に身近だとして、そこから(表現の)遠さそれ自体を目指しても路頭に迷うだけなので、『オチを伏せる(先を読ませない)』というところに重点を置けば結果的にそれが遠さになる、ということを念頭に置けばいいと思う。

『これが来たら次はこれ』と相場が決まっているところに驚きはないので、その相場からの『外し』を置くか、相場観がそもそもないところに行くかのどちらかを目指せたら理想的。

 

とにかく今年は本腰入れて、じぶん、頑張るべし。