エンド・オブ・バランス
繊細でったり美麗であったりする旋律って、それに対応する繊細であったり美麗であったりする人間の音楽という固定観念が先ずあって、対照的な強者がそのタッチに触れることは、音楽史に詳しくないけどあまりないように思う。
ところで僕が最近よく考えるのが『振り切れ』という言葉だ。振り切れというと何かの究極ないしはその対極、というイメージだけど、『バランスという振り切れこそ至高』という実感が僕のなかにあるのだ。
例えば完璧な人間を目指して『完璧な人間などいない』という反発力にぶち当たるとしよう。そこからゼロ地点に翻って、今度はゼロ地点の『何もしない訳にはいかない』という反発力が浮力になるとしよう。すると中間のどこかでバランスされる訳だけど、本当の究極とはそのバランス感覚だと思うのだ。
これはただの仮定だけど、中間のどこかに黄金の落としどころがあるとして、上記のそれぞれの振り切れ地点の反発力は、中間に行けば行くほど効力を失うか、あるいは効力が安定せず浮力が上下する。そこをソリッドに確定させるのはその地点ごとの『具体性』だ。
この地点で下に落とすにはこのロジック、上に昇らせるならこのロジックという感じで、具体的な言葉だけがその効力を発揮する。そうやって究極の中間地点をソリッドに確定させるのが、僕が思うところのフォーマルな生き方。例えばタイトロープダンシングにおいて、右と左の振れというのは意味がない。
世界は元々そういう繊細で美麗な構造を持っていると思う。右でも左でもない、バランスという振り切れの連続体。それだけが肉体も精神をもスペシャルにできる訳で、それ以外はすべてアンフォルメルという考え方を僕は信仰している。ボディービルやボクシングの肉体・体重調整でこれは顕著だと思う。
つまりケースバイケースの効力を自分に効かせ続けることが、最初はつらくても、最後は最高のカタルシスに通じるという信仰。バランスという振り切れに自分をフォーカスしていき、自分にだけできるタイトロープダンシングを見つけ出す。綱渡りには人間の真髄のすべてが象徴されているのだ。
ちなみにパンクのシャウトにもバランス感覚は宿る。言い換えれば、本能にもバランス感覚は宿る。そうでなければシャウトするだけでみんなロックスターになってしまうし、そこにはバランスを極めたもの以外の淘汰が存在する。だから『崩す』ということにもフォーマルになるか否かの瀬戸際がある訳だ。
その瀬戸際=究極の中間地点を手に入れることがフォーマルな生き方=オリンピック的な世界観ということになる。人間は壮大な世界観ばかりでは生きられないけど、理想論としてはこの考え方を僕は原点に据えている。踏襲するにしても崩すにしても、そこまで行かなきゃ最高ではないのだ。
最初の話に戻そう。僕は以下の動画が気に入ったけど、ここにも最初に書いた固定観念の『崩し』があるように思う。ジャジーヒップホップ的には今更感のある指摘だと思うが、むしろ『強者だからこそ』それをバランス的に崩せたのだと思うのだ。
僕はバラードであろうがギャングスタラップであろうがバランスを極めれば最高の価値が宿ると思うが、そういう領域にこの動画は存在している。世界は基本、儚いものだ。そういう刹那的な栄光を比喩している、言い換えれば僕らは光を瞬間でしか描けないことをシャウトしている。これはそういう動画だ。
最終的に僕が言いたかったのは、弱者もバランスを極めれば強者だし、強者もバランスを極めなければ強者ではないということだ。『力を発揮する』というのは『バランスする』ということの言い換えだし、タイトロープダンシングほど極端ではないにせよ、僕らは平均台の上を歩み続けるのだ。
踏み外せばすべてアンフォルメル(0)。渡り続ければそれだけがフォーマル(1)。この極論めいた二進数の“1”だけが世界を動かし、歴史を描き、“0”のすべては歴史にはなり得ても歴史を描く手は持ち得ない。だからこそ僕は“0”から“1”へのディシプリンを愛し、その最果てを信じるのである。