創作方法論
例えば『人々』というただそれだけのことを『Understar Mages(星の下の魔法使いたち)』と言い換えれば雰囲気が出る。この時『人々≒Understar Mages』な訳だが、『=』ではなく『≒』なところがミソで、あまりに=から離れ過ぎるとそれは原像のモザイクになる。
吉本隆明が「宮沢賢治の作品は特異な視線に切りとられた景観の、言葉によるモザイクという領域を出ようとはしなかった」と書いているけど、=と≠の狭間の≒のパーセンテージをどこに置くか。宮沢賢治は確かにこれがモザイクレベルと言えるところまで外している気はする。
何かを表す時=が必ずしも答ではないし、端から端まで≠ではそもそもそれを表す意味がない。≒以上のこと――つまり=になること――はできないし、=の限りなく近似の≒を意図的にアウトフォーカスして=から離し味を出すテクニックもあると思う。
原像の100%の表現が=に値するとして、80%ぐらいまでの表現(≒)は順当というか、驚きがほとんどない。周知のことを周知の表現で差し出されても「それで?」となるだけなのは目に見えているし、これを50%ぐらいの表現にまで落とすというか、意図的に断片化するのもひとつの手ではある。
例えば小説。全体を読んでこそその小説の像が最も明瞭になるのは分かりきっていることだが、ひとつひとつの文章の断片はその像の隠喩にはなっているだろう。つまり、その瞬間瞬間が≒である訳だ。しかしそれでは受け手により振り幅があるので足らずを埋め、像を狭くフォーカスしていく訳だ。
これを敢えて断片だけを提示し、最初は理解されなくても徐々に原像が見えてくるような、人それぞれの人生と共に紐付いていくようなやりかた。即座に分かるのではなく、立ち止まって考えて初めて50%が80%や90%に昇るような、むしろ隠喩こそが100%に最も近づくかのようなやりかた。
原像自体が独創的な場合、=の近似のまま提示しても驚きはあるし、これを更に隠喩してしまうのは段階をすっ飛ばしていることになる。アメリカ大陸を発見した人間がそれを詩にしても意味が通じないようなものだ。だからこの場合ストレートでいいと思うし、でもそんな発見は無数にはない訳だ。
だから敢えて足らずを作り、心地良い間を生み出し、その心地良さのなかでそれぞれがキラキラしたものを埋めていく。原像そのものよりもこの間の心地良さを目指す、言い換えれば、スペシャルなものそれ自体を表現するのではなく、スペシャルなものを隠喩に宛がうピースへと落とし込む。
更に言い換えれば、詩的言語で日常言語を上書きする。この場合の詩的言語というのは異化作用があって、それ自体でスペシャルな言語を指し、その言語についての詩を書くのではなく、その言語によって日常を隠喩する。これならばその言語を使う必然性を無数にあらしめ、異化作用を躍らせることができる。
『星』は詩では比較的よく出る単語だと思うが、その異化作用はただ置くだけでは働かない。この時深みへと到るような描写でその異化作用を引き出すか(ダメージドされたゴールデングース)、あるいは素描でスペシャルになる大発見をするか(そのままのベイプスタ)の次の、第三の選択肢。
日常のすべてに星や天使や魔法使いを(必然的に)配し、その隙間を見る側に自由に埋めてもらう。このやりかたなら発見など要らない上に、スペシャルなことをあちこちで引き起こせる。宮沢賢治論と自分の結果論から思いついた方法論だけど、つまり『日常は無限』ということなのだ。