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THINK ABOUT SOMETHING.

パーソナリティーの信仰

「筋を通す」ということと「真を取る」ということが同義だとして、個人史以上に生々しく化け得る対象は他にないから、そう考えるとパーソナリティーというのは芸術の拠点と言えるのではないか。


例え一瞬であれ「雨にも勝り風にも勝り」に到達する為には、以前にもつぶやいた通り真を取るクライミングのテクニックが必要で、それは筋を通した過去が幽かに未来へ橋渡しするような形で、一寸先の光から波及的に自然発現するもの。


パーソナリティーがぐんぐん螺旋を導くというのは、芸術家の理想の境地かもしれない。その為に僕は僕を肯定する。ザ・ワールド・イズ・マインみたいな感じで(あれは揶揄らしいけど)。


やろうとしてやることはことごとく失敗する。だから何事も自然体が一番いいけど、同時に自然体を鍛えるという視点も大切だ。それが多分、個人史を輝かせる(肯定する)という所に帰結するんだろう。


個人史は誰でも持っているし、その唯一性が最高の武器になる。でもこの最高の武器はいざ手にすると、錆びた剣の状態から始まる。個人史というのはほとんどの場合、無意識的に虚構化されてるからね。


天然の状態では一寸先は闇のまま。そこに幽かな光を燈す為には、自分という全存在を認めてやらなきゃならない。それは時に残酷だし、過酷でもあるけど、昇りの王道はそこから始まる訳だ。


普遍的なものも個人的なものも最終的には同義になる筈だけど、後者が前者になることはあっても前者が後者になることは多分ない。それは芸術家不在の芸術になりかねないことを意味するし、だから昇りの神学化から昇りの個人化へということなのだ。