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THINK ABOUT SOMETHING.

センスオブワンダー

論理的な思考に基づいて試行錯誤し、自分なりの手応えを掴む。これは「慣れる」という行為の基本的なルールだと思うし、「論理がなければ何に基づくのか」というのは最もな意見だ。


でもこれはある一線までの話で、その一線以降を想定すると「感覚」が重要になってくる。即ち掴んだ手応えを説明可能性に還元できている間は、誰とでも共有できる程度のイメージに過ぎないが、掴んだ手応えが説明不可能性にしかなり得ない場合は、それは時としてセンスオブワンダーと呼び得る訳だ。


少し話が飛ぶが、僕の職場で内職を神懸り的なスピードでやる人が居たが、あそこに論理などない。プロボクサー的な感覚だけで動いていたし、ということは論理に還元できない、即ち説明できない、ゆえに誰も真似できないという状態だった。正に感覚無双とでも言うべき「本物の慣れ」だ。


これを見て慣れを論理に還元できている間=説明可能な間は甘いだとか、写実よりも抽象が上だとか、ノヴァーリスのように詩は哲学の鍵であるだとか、そういう考えをより一層深めることになった。要するに説明可能性に還元できる=誰でも分かるということだから、その時点でその程度なのだと言える訳だ。


だから「お前の言うてること分からんわ」と言わせられるぐらいでないと、クリエイターとして話にならないと思うのだ。単に支離滅裂なことを言って煙に巻くのではなく、真実を語ってるのに全く意味が通じないという所に、その人だけに見えている黄金があるんじゃないだろうか。


論理に置き換えられない感覚的な領域、それは論理の対極としてあるのではなく、論理の超えられない壁の向こう側に、即ち論理の果てにあるものだ。そういう説明不可能な領域=本物の慣れをまるで持たないクリエイターは二流以下だと思うし、また説明可能性は全て消化するのがプロの前提なのである。


例えば「ノイズは必要悪」という昔の自分のツイートは、プロなら大体の人が分かってる筈。でも「ノイズを入れるに足る原型は如何にして生むか」まで掘り下げると、途端に説明できなくなるし、即ち説明可能性というのは小手先の話で(でも凄く大事)、説明不可能性にこそ神業が宿るんじゃないだろうか。