BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

アートは奇数的であるべきだ

ほぼ日手帳コピー大賞に応募するコピーを考えているが、コピーにしろアートにしろ『偶数的なものは弱い』というのを前々から思ってて、今回その思いがより確定的になった。

 

例えば一個没にしたコピーを挙げるけど、『せいかつの一部に、せいかつの○○を。』というのを考えた。伏せ字にしたのは被ってしまってる人が居るかもしれないからだが、でもちょっとだけ否定させてもらう。これは前半を読み終えた時点で後半を予想できる偶数的なものだ、と。

 

厳密に言えば偶数的なものと言うより、対置的なものとでも言えばいいのかな。前半と後半が只の裏表であるとか、二元論的であるとか、微妙な言い換えに終わっているとかだ。そういう『上手く言うだけのコピー(ないしはアート)』は創作手法としては楽なのだが、想像の斜め上を行くことがほぼない。

 

「なるほどな」とはなるかもしれないけど、「そう来るか」とはならない。例えば『おとなもこどもも、おねーさんも。』は、要素的には奇数だが微妙な言い換えを連発しているだけなので、実質偶数的=対置的なのだが、最後の『おねーさんも。』で全て肯定されたというか、『外してくれた』と思える訳だ。

 

整合性は偶数的なものの方が強いかもしれないけど、本当に最後に面白いのは奇数的なものの方だと思う。奇数的というのは対置的なものがあるにせよないにせよ、最低でも一つの『外し』が生じざるを得ないということだけど、例えば3なら2は整合的でも、1はそこから仲間外れになっているということだ。

 

そういう異化作用の方にこそカタルシスがあるのであって、『順当に事が進み順当に事が終わる』では納得以上のものにはなり得ない。これが例えば物理学の世界とかならそれでいいんだけど、コピーやアートの世界はそうじゃないと思うのだ。予定調和では終わらない『驚き』が要ると思うのだ。

 

もちろんこの奇数は偶数と違って安易に狙えるものではないし、ベック・ハンセンの言うような『偶然性の組織化』からしか為し得ないとは思う。偶数的なものは『1に対する1』として組み立てられるけど、奇数的なものは『何にも対応しない1』だから、半ば運というか必然的には組み立てられない訳だ。

 

でもだからこそそこには光るものがあるし、それが本来の本命だ。奇数的なものが大穴に見えて偶数的なものが本命に見える、というのは錯覚だと思うし、それは只の創作難易度=必然性の関与度を言い表してるに過ぎない。世界は偶然的だからこそ面白いのだし、その閾値を超えないコピーは生きてこないよ。

 

……とは言え。自分が捨ててきた偶数的なものの中から大賞が選ばれることはあり得るし、結局これも一つの視点でしかない。奇数的なものの方が面白いというのは大体の場合正論だと思うが、偶数的なものの方が上回るケースも僕はいくつか見てきたし、結局絶対の答なんてないから、世界は面白いのだ。

 

ちょっと話は飛ぶが、偶然性を装った必然性の極致として、ナイキのCMが挙げられる。あれはほとんど綿密な計算とそれを具現化する撮影回数で成り立ってると思うが、まるで一発撮りのようなナチュラルさがあって、それゆえに――日常の一コマを模するゆえに――必然性は読み取られない。見事な隠しだ。

 

それはコピーにも応用できるかもしれないが、ナイキのCMは必然性を隠すだけでなく、奇数的なノイズが入っている点も見逃せない。ちょっと脱力する瞬間であるとか、意識の連続性が飛ぶであるとか、そういうグラインドハウス的な構成要素が入ってて、それが日常的な振る舞いを加速させている訳だ。

 

結局そう考えたらナイキのCMも偶数的に見えて奇数的な処理がされてるし、全面的に偶数的に処理された創作は、奇数的創作に太刀打ちできない気がするのだ。だから僕は原則として奇数的なものを目指すし、偶数的なものは伏せるし、短い言葉のその中でも最後まで読まれない作品にしたいな、と。