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THINK ABOUT SOMETHING.

自由とはアブノーマルな帰結である

例えばiTunesで同じプレイリストがあるとする。それを聴いて一度目の人生では最終的にaがベストソングになるとする。その後もう一度人生をやり直せるとして、二度目の人生では最終的にbがベストソングになるとする。この場合の必然性とは何なのか。

 

寺山と三島の対談に繋がるんだけど、三島は「ドンキホーテが不思議なことにぶつかるのは偶然じゃない」と言った。寺山はそれに対し「性格は食い物で決まったりするんで、たまたま何を食ったか、近所にどういう食い物屋があったかという偶然性で決まる」と言った訳だ。

 

僕は最初寺山の説の方に説得力を感じたんだけど、その後『放たれるべくものとして我はある』のエントリーで三島の説に流れて、今日のこの思考でその土台がまた少しあやふやになったのだ。即ち同じグループの中で別々のものに帰結することが、必然性と言えるのかどうかということだ。

 

多分、こういうことなんだと思う。偶然性と一回性は同じ意味ではないし、人生の度に繰り返される一回的なものへの帰結は、その時系列的なプロセスに必然があるのであって、帰結を単体で取り扱うからおかしなことになる。それは聖なるグラデーションであって、決して変身ではないのである。

 

それは生得的なものに依存していて、自由とはむしろ遺伝子決定論的なものなのだ。一回的な帰結のそれぞれは遺伝子的に決定されていて、その総合的な姿は遺伝子の言い換えというか、鏡像である。それが遺伝子の漸進的帰結(固有性)であるならば、全回的なものは遺伝子の初動的帰結(普遍性)と言える。

 

この遺伝子のグラデーションは、セックスシンボルからその対極にあるドッペルゲンガーまでを描画する。性の黎明期では遺伝子のパターン的な振る舞い、即ちセックスシンボル(AやA')に帰結し、性の黄金期では遺伝子のランダム的な振る舞い、即ちドッペルゲンガー(aやb)に帰結するという訳だ。

 

もちろん前者が全回的なもので、後者が一回的なものだけど、一回的なものの方が必然性の深淵であるという逆説の根拠は、前者はその個人を決して言い表さないというところにあって、それは同じ遺伝子的決定ではあるものの、普遍性に回収されてしまう。要するに、個人ではなくなってしまう。

 

深淵にこそ、一回性にこそ、無秩序にこそ『我』があり、そこに到る聖なるグラデーションは遺伝子的に規定されている。その漸進的推移は実はパターン的であり、その個人の遺伝子の模様を表しているが、セックスシンボルは漸進する前段階の万人の通過儀礼としての帰結のパターン(模様)に過ぎない。

 

その『私の模様』にこそ自由意志の根拠があって、それは総じて一回的なものに帰結する。世界に変身などなく、全ては漸進的推移であり、その始まりの地点で悶々とするのが全回的なアンフォルメルに他ならず、『皆の模様』から『私の模様』へと推移することこそ万人との乖離=我の発見に繋がるのである。

 

全回性が普遍性に、一回性が固有性に回収されるのなら、昨日つぶやいた症例の病名への還元不可能性はそこに根拠があり、然る終末的なもの・病理的なものにこそ自由は宿るのだ。名付け易いものから名付け難いものへの漸進。一回性の病理を内在したギリギリの戯れ。そこにこそ光が存在するんだと思うな。

 

即ち『気分が落ち込む』程度だと全回的だが、『精神的に鬱になる』まで行くと一回的になる。それを普遍的な病名で回収しようとすること自体に、即ち鬱を鬱病扱いすること自体に無理があるのであって、原則として根深い精神的病理は全般的に、遺伝子のグラデーションの彼岸にある存在だと僕は思います。

 

遺伝子のグラデーションの片端には万人のプレミアムな確率論があり、またもう一つの片端には個人のプレミアムな確率論があり、前者から断絶された後者に立ち向かうことこそが宿命論で、万人が体験し得るものと個人が体験し得るものの重複を殺していく彼岸への飛翔、自由とはつまりそういうことなのだ。

 

原体験というのはつまり、遺伝子の描画するグラデーションの全域を無意識的に認識することであり、エロスの延長がそのグラデーションに相当する。この現象と認識の間には必ず乖離が生じるが、エロスだけでは彼岸を可視化することはできず、乖離ありきの原体験に頼らざるを得ない逆説がそこにはある。

 

そう考えるとエロスというのは『遺伝子決定論的衝動』の言い換えなのかもしれず、原体験というのはその『遺伝子的終末の直観』ということになる。言わばエロスそれ自体では達し得ない上積みに接続するグラデュアリズムであり、衝動が尽きるところに火継ぎする『聖なる上方修正』の根拠なのだ。

 

例えばエロスの純粋なベクトルが垂直に立っているとする。そこから原体験も含めて10まで上方修正できるとすれば、エロスから45度傾いた原体験的紐付けは半分の5までで伸び悩む、というのが僕の曖昧なイメージで、更に言えば原体験の火継ぎで勢いよく燃え盛るのも前者であり、後者は半減する筈だ。

 

人生で数回は原体験的なものに遭遇するが、その中での燃え盛る度合いを見てエロスとの真のマッチングを見極める、ということもできるかもしれない。但し勘違いしてはいけないのは、それは情熱としてその瞬間に消費されるものではなく、むしろ行為の尽きるところでどう出るかという判断のことを指す。

 

例えば必読書150から恣意的に本を選んで、代わる代わる情熱を感じたとしても、その段階ではそれがエロスと深く紐付いているかは全く判定できない。僕は最初それでミスをしたというか、どれも名著だからそうなって当然なのが分からず、『ゆけば分かるさ』の意味もまた分からなかったのだ。

 

今は行為の終焉がどう変わったか、ということを監視しているし、そこが延々と燃え盛っていくような領域に、僕の自由意志があると思っている。それは結局のところ『行為の中でしか分からない』し、インプット(例えば名著の読了)の地点で行為の結末までを予言することは、根本的にできないのである。