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THINK ABOUT SOMETHING.

理想はデジャヴレス

考察する価値があるかはともかく、僕がコピーを書く時と、普通の文章を書く時の頭の使い方には違いがあるみたいだ。結論から言えばコピーを考える時、僕は『発散しない程度に想像の端っこを取りに行く』ということをやっていて、そうすることで独創的にもなるし、奇数的にもなる訳だ。

 

翻って普通の文章を書く時は、それを普遍的に仕上げようとするから、『収束の限界まで想像の真ん中を取りに行く』ということをやっていて、しかしこの方が難易度が低いという訳でもない。そこには推敲の無限性があるし、コピーにしたって希求の無限性がある訳だ。

 

厳密に言えば想像の真ん中というのは『誰もが最初に思い浮かぶところのもの』ということで、例えば昔にあったFF3のキャッチコピーコンテストで、ほとんどの人間がタマネギというキーワードを使っていたあの状態のことだ。それを見事に推敲できてればいいけど、自分含めどれも似たり寄ったりだった。

 

翻って想像の端っこというのは『誰もが思い浮かぶとは限らないところのもの』ということで、そこにはそこの旨みがあるけど、テーマと紐付けられるかどうかは微妙で、できないことの方が遥かに多い。だからほとんどの人は真ん中に戻っていくし、端っこの方は想像が散り散りになる現実がある訳だ。

 

例外も少しはあるけど、言葉を食材と仮定した場合、あらゆる言葉がコピーになり得る。肉(真ん中)を焼くだけが全てではないし、どんなにマイナーな食材(端っこ)でも素晴らしい料理に化け得るのだ。前者の方が『味』自体は上かもしれないけど、やられた感というような『切れ』は後者の方に宿る。

 

『味』を競っちゃうとそこはもう食傷気味だから、競争力が実はない。同じようなことをみんながやるだけだからだ。逆に『切れ』の方は創意工夫を前提としているから、それが完成に結び付くかどうかはともかく、競争力がある訳で、誰もが同じにならないところのものにこそ本来の金脈があるのだと思う。

 

昔ネイバーに上げた記事に通じるけど、アートは発散しない程度に、迷わない程度に想像を広く取るべきだ。それが広ければ広いほど個人の力量を表し、言い換えればそれは『完成可能なテリトリー』なのだ。そして和食であれ中華であれ何であれ、そのテリトリーが被らないところに最大の『驚き』があると思う。

 

コピーの奇数性(何にも対応しない1)というのはそこから生じるのだと思うし、偶数(1に対する1)で終わると何かスッキリしないというのは、前半が引き鉄で後半をデジャヴしてしまうからなのだ。即ち作り手だけでなく受け手の側も想像の範疇だから、一番大切な『驚き』が欠けてしまうのである。

 

デジャヴ中のデジャヴ。近似達の中の究極。そういう方向性にも面白さはあると思うし、ほぼ日手帳コピー大賞に関してはそちらの方に分があるとも思う。というかある意味王道だとさえ思う。でも自分は奇数的なものに憧れがあるから、今回は想像のベクトルをそっちの方にシフトした気がする。

 

とか言いながら。ほぼ日手帳コピー大賞に応募したコピーの内、この理想を体現できてるのは一つもないかもしれない。奇数を『オチ』と言い換えるなら、それが上手くいったかなと思えるのは一つか二つ。でも結局最初に思い浮かんだコピーが、振り返れば一番良かった気がするなー。

 

ちなみに偶数と奇数を『対応物の有無』で分けるなら、真ん中的なものをことごとく参照するのが偶数で、想像の端っこでそれ自体で存在する驚くべき例外が奇数だ。FF3のコンテストはほとんど前者に流れていたし、ゆえに奇数的なものは皆無だった。選ばれたコピーは見事に奇数だったんだけどね。

 

『何かに対応する1(偶数)』と『何にも対応しない1(奇数)』との狭間で、後者を目指すこと。前者の『何か』が真ん中的なものであればあるほど『対応する1』のデジャヴは酷くなるし、それを『何にも対応しない』に推移させ、『純粋なる1(奇数)』を目指すこと。これこそがコピーの極意なのかも。