BLOG.NOIRE

THINK ABOUT SOMETHING.

輪廻転生の不可能証明 Ver1.0

定義

輪廻転生とは同じ光の再現(世界へのデジャヴ)である

 

定理一
黒に属する内は精神は一切の感覚を持たず、精神はそれを超える光に宿る

 

証明一
夢とは黒を超えない閾値未満の発光現象であり、受肉とは黒を超える閾値以上の発光現象である。例えば睡眠と覚醒は天地創造の比喩であり、その比喩で考えてみると、睡眠の間は世界は黒であり、滅びているが、夢が何処からともなく現れて、閾値未満の自我が朧に立ち上がり、覚醒で以って完全に立ち上がり、黒を圧倒する。即ち閾値を超えた光である。これを自我論的に考えてみると、全ての人間の自我は零歳から始まるのではなく、精々二、三歳から始まるものであり、それまでは何の意識も記憶も存在しないが、この期間の以前が黒に、只中が夢に、以降が自我の覚醒即ち光に相当する。またこれを宇宙論的に考えてみると、宇宙年齢は138億年とされているが、厳密にはビッグバン以前の時間も含めなければならず、それが黒であり、ビッグバンに到るまでの兆しが夢であり、以降が世界の受肉即ち光に相当する。仮に黒を超える光に到らなければ世界は只々黒のままであり、あるいは只々夢に終わるのみであり、一切の感覚を持つことなく過ぎ去る故、誕生する為には夢で終わらない――黒を圧倒する――閾値以上の光が求められており、生きとし生けるものは全てその光を有さざるを得ないのである

 

定理二
あらゆるものの再現は総じて不可能である

 

証明二
宇宙のサイズが一定であるならば永劫回帰は起こり得るが、宇宙は膨張する。故に究極の複製技術が存在したところで、その一回目と二回目では初期値の違いから極めて微視的な誤差が生じ、零回目即ちオリジナルとの間でも当然そうならざるを得ず、これはバタフライエフェクトの考え方(万物は万物を動かす)からも明らかである

 

公理一
光は諸々の外因に拠って発生し、減衰し、それ自体で再生能力を持たない

 

結論
証明一に拠り、我々は光として存在するが、公理一に拠り、それは最大から最小へ、即ち零へ減衰し、そこから再生する能力を持たない。諸々の外因(例えば受精)に拠ってもう一度再現される可能性は残っているが、それも証明二に拠り無効であり、クローンとデジャヴは似て非なるものであり、消滅した光は二度と帰ってこない――即ち輪廻転生は存在しないのである

輪廻の何たるか

今日は久々に友達と会ったが、なんか哲学的な話を繰り広げることになった。人間の死後その人間の完全なコピー(≠クローン)を作ることができれば、それは生まれ変わりとなるのかという話だった。

 

根本的な前提として、僕は複製というものを昔から信じない。コンピュータの複製は一見完璧なコピーに思えるが、ハードディスクにあるファイルをコピーしたところで、それが元々のファイルとの同一性を保持されるとは僕は考えない。物理的位置が違うからだ。

 

それを最初に僕が言うと、友達は「僅かな差異があっても同一人物と言える可能性は残る。それは昨日の自分と今日の自分に僅かな差異があることからも明らかだ」と言った。要するに死者の99.999999%ぐらい再現できていれば、輪廻し得るのではないかということだ。

 

そこで僕はバタフライエフェクトの話を持ち出した。諸説はあれど、あの概念から学べることは『あるものが遠くのものへ影響を与える』というところではなく、『万物は万物を動かす』というところだろう。その視点で言えばこの理論は破綻してしまうのは疑いようがなかった。

 

僕が今ドラゴンアッシュを聴いていることがブラジルの全ての人の思想形成に影響を与えない訳がないし、これはオカルト的な話でも何でもなく、これが分からなければ哲学を一からやり直した方がいい。バタフライエフェクトってそういうことだし、複製という言葉の本質は『時間を止める』ということ。

 

彼は超未来的な話として、今からでは考えられないような技術で複製は実現でき得るという言い方をしていたが、複製の空間的な問題は依然として残るだろう。万物は流転し、宇宙は膨張する。神即自然は絶えず変化するし、その中で複製するという行為を『限れば済むのか』という問題だ。

 

神即自然のその全体を複製するということは、宇宙が膨張する限り、実現し得ない。同じ世界状態――ニーチェが言うところの永劫回帰――は永遠に起こらないし、その中である限定的な複製をしたところで、それはバタフライエフェクト的にキャンセルされる。即ち限定された永劫回帰も、ない。

 

要するに究極的な複製技術が存在したとして、それを行使し、それが完了した後もう一度それを行使しても、一度目のそれと二度目のそれとでは宇宙の大きさが変わっている以上、バタフライエフェクト的に等価にはならないのだ。その局限された意図的永劫回帰は、その他万物によってキャンセルされるのだ。

 

だから複製は時間を止めるということ以外では、実現し得ないのだ。ここまで来ると少なくとも『同一人物としての輪廻』は先ずないし、『僅かな差異で同一性が消えることはない』という主張も、蝶が竜巻を起こし得るという視点からも受け入れがたい。細胞一つのミクロの誤差で、全ては変わるのだ。

 

それに仮に僕が80年生きれるとして、60×60×24×365×80=2522880000秒を生きれる訳だけど、仮に時間の最小単位(この言葉は嫌いだが便宜的に)が1秒ならば、25億回以上の自我のページがある訳で、このどのページにも彼の言うコピーは属し得ないのだ。

 

この25億個の自我は全て連続性によって同一性を保証され、その連続性は神即自然も含み込んだものとして存在し、限定的にその連続を再現しようとしたところでバタフライエフェクト的には無効なのだ。だから差異論で現象の同一性を守ろうとしても、それは無理があるというのが僕の見解。

 

僕の中では結局輪廻はないという話に帰結するだけだから、彼の視点の方が希望があるんだけど、この考え方は譲れない。それでもいろんな視点が生じたし、今日は久々に楽しかったのら。

オリンピック的視座

燻し銀のあらゆる経路を経た後の黄金としてのゴール。あるいはゴールそれ自体が直接的にやって来るケース。前者を『肉迫型直観』と呼ぶとすれば、後者は『純粋型直観』であり、世の中で一般的に言われているインスピレーションというのはこの純粋型に相当するだろう。

 

僕は基本的にこの直観を信じないが、しかしその近似は信じる。『悩む』という行為と『迷う』という行為の違いは後者が『迷う方向に行く』なのに対し、前者は『迷わない方向へ行く』というところにあるのだが、ゴールまで迷いに一切晒されず肉迫した直観としての純粋型はあり得る。

 

ここで肝心なのは、純粋型も結局は肉迫型の能力を要求されているということだ。即ち語彙がなくても道は開かれず、想像がなくても道は開かれずというような闇に当たりをつける行為を肉迫型直観と同様に行っていて、それが総じて当たり続けるような直観としてのみ純粋型は成立する訳だ。

 

如何に短い言葉のジャンルでも、例えばキャッチコピーや短歌等の類でも、この構造は変わらない。もちろん僕自身、答が突然やって来るようなインスピレーションは何度も味わっているが、そのプロセスを詳細に見ると結局『悩み抜いた帰結』としてそれがある。即ち『迷いがなくなった瞬間』だ。

 

燻し銀のあらゆる経路を経た後の黄金としてのゴール――これは何も不可逆の行きっ放しではなく、行ったり来たりも含み込む行為であり、そこで初回からゴールまで行き切るということはゼロに近いし、総当たりに当たりをつけて悩み抜いた挙句の起死回生――それがインスピレーションに他ならないのだ。

 

これはバタフライエフェクトの竜巻に極めて似ている。自動書記をしていて振り返れば黄金があった、という体験をしたことがある人なら分かるだろう。そして『総当たりに当たりをつける』のが蝶のはばたきに相当するならば、そこを磨くことこそ直観への王道で、向こうからやって来るのを待つのは邪道だ。

 

要するに肉迫型の必要案件としての語彙、想像、哲学、思想、経験等が蝶のはばたきなのだ。他にも要素はいくらでもあるだろうが、その諸要素を無数に横断しなければ成り立たない芸術の方向に僕は黄金を感じる。少ない要素で一気に持っていくような例えばベイプスタは、最終的見地では弱く、敗れる。

 

全てが必然的に生かされているという前提で、この諸要素が多ければ多いほど凄まじい竜巻を起こす。但し少ないところの黄金が悪という訳ではなく、それはポップアートとして受け手としても作り手としても大衆に愛されている。即ち組み合わせの妙があるからこそ、誰にでもチャンスがあるのだ。

 

しかし僕としては蝶より人間の方が、即ちバタフライエフェクトよりヒューマンエフェクトの方が、竜巻どころではない凄まじい何かを引き起こすものだと思っている。それは諸要素が多いというところに起因するし、それらを必然性に昇華すれば原爆だって生むのが人間なのだ。

 

それをポジティブに昇華したアートが一つの王道なのかもしれない。蝶のはばたきの有効性――即ち大きな必然性に通じるカリスマ――よりも、人間のそれの方を僕は愛する。岡本太郎の『芸術は爆発だ』という言葉はおそらくこういうことで、しかしそこには肉迫型に要されるカリスマが必須なのだ。

 

そしてオリンピックはここまでに記した全てを表しており、スポーツの勝利の最高峰に特別な意味を付与した三島の気持ちが、今になって何となく分かった気がする。あそこには人間の全てがあり、あの視座からでしか人間の黄金は掴めないのだ。それは文学も然り、科学も然り、即ち芸術の全てに然り。

詩とブランディング

過去の経験則から大体の当たりをつけられる状況の多様化は、小説家を現実の最果てに誘う。寺山は『天才だけが遠くへ行ける』みたいなことを言ってるが、この当たりを外せば誰でもいくらでも遠くへ行けるが、そこに現実性はなく、深みもなく、求めるものが違うがそれが例えばライトノベルだろう。

 

小説家はより未来により遠くに行く。アイディア先行型の小説に関して言えばその限りではないかもしれないが、純文学に関して言えば基本的に後期に向かって書ける深みは深くなっていく。過去が増えると経験則も増え、シーンに対する当たりの正確性も増す=進路も増えるという訳だ。

 

これは日常にも言えることで、シーンに対する当たりの正確性が増し、進路が多様化すると、過去に行けなかったところまで辿り着ける。これは必殺技(例えばベイプスタや神曲)で一気に持っていく話ではなく、もっと燻し銀の『あらゆる進路を経てトータルで前進した量』を意味する。

 

無限大が神であるならば、天才はその近似であり、個人史の長さと行ける遠さは比例する。即ち繰り返しになるが『より未来により遠くに行く』ことができるようになる原理があって、過去の総和=個人史の長さはその個人のストレングス=行ける遠さになる。歴史は万人を天才に変えるのだ。

 

そして誰が神に最も近い座に座れるかは、誰にも分からないのだ。この進路の多様化はバタフライエフェクトのように結果の予測がまるでつかないところまで行き着くし、修羅と真逆のか弱き蝶が神――始点からのクォータービューでは見渡せない最果て――に到ることだってあり得るのである。

 

但しここには救いもあって、純文学はあるレベル以上の作家になれば放っておいてもいずれ竜巻を起こす。もちろんプロットが要らない訳ではないし、ダンテの神曲のような構成も嫌いじゃないが、ドストエフスキーの如く燻し銀的にあらゆる進路から伸びていく構成の方が、最終的には強いという直観がある。

 

アイディアや構成に当たりの誤差を無効化する強度がある場合、最早当たり外れ(現実度)に関係なく一気に持っていけるが、その前進は遠きへの進軍ではなく、同じところの環状線に過ぎない。要するにシンギュラリティであり、その究極以外のものは全て究極に敗れるというようなヒエラルキーがある。

 

そこから導かれるのは、『陽はまたのぼりくりかえす』の軌道を再現するのが詩の最高峰ということである。遠くに行くのではなく、同じところを何処までも廻るものの最高峰が、当たり外れとは無縁の詩の究極なのである。詩人の深淵は本質をえぐらないが、永遠に廻るものの比喩として『光』になるのだ。

 

ベイプスタはナイキに勝てないし、神曲も聖書には勝てない。それぞれの前者の方が見掛けの輝きは上なのだけど、それぞれの後者の方が『永遠に廻るもの』と結び付いている。即ちスポーツと宗教だ。この二つは限りなく似ているし、『陽はまたのぼりくりかえす』の第二第三と言っても過言ではない。

 

もちろんベイプスタは芸能人戦略が機能していた時期もあるし、神曲も思想として読めば廻り続けるかもしれない。しかしそこには『オリンピック的要素』が決定的に欠けていて、『記録への野望』と『アイコン』が紐付いていないぬるま湯に過ぎず、両者は『神を目指す者の衛星』にはならないのだ。

 

そう考えると聖書は『履物』であり、聖書それ自体が輝いているのではない。聖書を履く者が神に向かって歩み続ける限りにおいて輝くのであり、これはナイキにしても然り。それを万人に行き渡らせたという意味でナイキと聖書は限りなく近いものであり、共に『光の軌道』を再現したブランドなのである。

Webサービスのアイディア

ワールドカップに際し思いついたサイトのアイディアを書こう。YouTubeは楽曲の解析の為に音声解析をしていると思うのだけど、それを音声認識してテキストデータベースも別に設ければ面白いことができる。キーワードによるシーン検索だ。

 

例えば自分の好きな芸能人の名前でシーン検索をかければ、タイトルにその芸能人の名前が含まれていなくても、動画内でその名前を呼ぶシーンがあればそこに飛べる。つまり、あらゆる動画内のシーン一覧を抽出可能で、タイトル検索とは別の検索としてそれは引っかかる。

 

理想は「ゴール」とシーン検索をかけて、実況者がゴールと叫ぶシーンを一覧抽出することだが、点が入る時以外でもゴールと喋ることはあり得るし、詳細検索に声量や長音フィルターを設けるのは必須。また「ゴール」だけでは目的外のスポーツも含まれる為、タイトル検索と組み合わせる必要もあるだろう。

 

そしてシーン検索するキーワードの該当シーンから、前方ないしは後方またはその両方の尺指定をできるようにする。例えば「ゴール」に対して前方に10秒の尺を指定すれば、ゴールの瞬間から10秒遡った時点から再生されるし、これは前方にも後方にも両方にも指定できる。

 

そしてここからが重要で、それをQueuingCamみたいにダイジェストにするのだ。例えばサッカーのゴールシーンが指定された尺で代わる代わる再生され、あるいはボクシングのKOシーンが指定された尺で代わる代わる再生されていくようなイメージ。動画が存在する限りにおいてだ。

 

他にもニュースがYouTube上に有料チャンネル化されれば(この辺は全然詳しくない)、そのアーカイブからあらゆる当時のニュースを検索もできる(但しそれは課金者の特権)。基本的にニュースは音楽がかかってないから、音声認識の精度的に相性も良い筈だし、学術的な用途でも使いこなせ得る。

 

あるいはテキストに限らず、笑い声や怒鳴り声といった感情フィルターも設けたり、それらをダイジェスト化してあちこちに自由に飛べる操作性を実現できれば、少なくとも自分は使ってみたい。問題はそれらの認識の精度で、ダイジェストに無関係のシーンが混ざったりあるいは欠けたりすれば台無しになる。

 

一番のネックはそこだ。それに「ゴール」というキーワードのみだと素人動画のシーンとかも混ざり得るから、公式チャンネルのみといったフィルタリングをして回避する必要があるけど、音声認識の精度の問題はやはり残るし、動画数も激減するし、なんか片手落ちだなあ。

 

『混ざる』の方はユーザーに委ねる形でフィックスさせることは一応可能だと思うが、『欠ける』の方はそれをするのに一気に難易度が上がる。それに詳細検索が難しくなればなるほどサービスとしての普遍性もなくなる。片手落ちを前提で楽しむWebサービスとしてならいいんだけど、なんかもったいない。

メンヘラの自然治癒

昔から持ってた持論を一度整理する。メンタルの病の自然治癒について僕が思うことで、以前も軽く触れたかもしれないけど、これは『学んでもいない漢字が読めるようになる』というメカニズムに近いと思うのだ。

 

書けない漢字は山ほどあっても、意外と読むことの方はできたりする。学んでいれば読みも書きも両方できる筈なのに読みだけができるということは、人間は積極的・意識的に学ぼうとしなくても、結果的・無意識的に自然と学んでいるのだ。アナウンサーの発語、新聞のルビ、文脈からの類推などで、だ。

 

この時書きが学べないのは読みと違って一聴して認識できるものではないからで、しかしこれもサヴァン症候群のような人であれば一見して学習することになるだろう。これをメンタルの病に当てはめると、自分の不得意な分野や状況の解決策は、人と触れ合っているだけで自然と身に付いていくのではないか。

 

よく『人の振り見て我が振り直せ』と言うが、その身振り手振りは無意識的に暗記されていく。そして自分が同じ状況になった時その履歴から行動を選択できるようになる訳で、この時に選択してる意識もなければ暗記した覚えもないというような、細かい細かい部分での自己変化が『病の回復』なのだと思う。

 

自己啓発の本とかはこの暗記から選択までを意識的にやらせる訳だけど、それは『身に付いた』ということとはまた別の次元の話だ。選択した意識もないまま選択しているということは、それが自然体ということだし、そういう次元に到るまで人と触れ合うことの方が同じ啓発でも上位に相当する訳だ。

 

もちろん無意識的に読みができる漢字にも限界があって、何度も見かけてるのに一向に読めない漢字というのはやはりあるけど、日常生活を営む上で特に支障は起きない、というぐらいの水準までは、漢字検定なんかを取らなくても自然と辿り着ける筈で、それはうちの小卒の母親が絶好の例。

 

逆に母親は英字をほとんど読めないけど、それは読むことに必然性があまりないからだ。上述した『一向に読めない漢字』というのもおそらくそれで、本当に必然性に迫られている場合、日常生活を営む為にそれを学習しようという無意識のメカニズムが働き、それもカバーする筈なのだ。

 

つまり僕達が読める漢字は日常生活で使うものばかりなのだ。そしてそれは学習していようがしていまいが体に染み付いていて、思い出さなくても振り絞らなくても自然と暗唱できるものなのだ。要するに『自然体』であり、これが日常生活を営む理想であるならば、本質的には学習など要らないのだ。

 

この『日常生活ができるぐらいの漢字の読みの習得に学びは要らない』という仕組みは、メンタルの病にも当てはめられると思うし、意識的に何かを変えようとしなくても、人と触れ合う現場に立ち続けていれば自然と日常生活の水準まで辿り着いているんじゃないかな、と僕は思う。

 

全てのことはこなせないけど、生活だけならきっとできるのだ。だから必然的な現場に立ち続けることが重要だし、但しそれもしんどければやらなくていいと思う。人間は基本的に時間経過で上向いていくと僕は思ってるから、働く時間も休む時間も自然治癒に変わりはない。

 

ここをショートカットしようとする親御さんが多い気がするけど、モラトリアムに付き合うということが家族の最大の支えだし、時間を焦って浪費させないことだ。向精神薬は数あれど、時間以上に回復する薬はないし、『時こそ薬なり』なのだ。それを無理矢理口に含めさせようとしたら、そりゃグレるわ。

ゲーム性神話

僕は時々「このゲームのグラフィックがPS1水準だったら面白いのか?」ということを考える。2D時代まで遡ってしまうとゲーム性がそもそも変わってしまうので、同じ3D時代の最初期に合わせた時、それでも面白いかどうか。これはもの凄く重要な視点のように思う。

 

グラフィックがゲーム性から逆算した必然である場合、言い換えれば、それなくして面白さの特定域に入れない場合、PS1水準(あるいはそれ以下)まで落としてしまうとそれが必然ではなくなってしまう為、面白さはある程度スポイルされるだろう。何となく思い浮かんだのはGoWとか大神だな。

 

逆にグラフィックがゲーム性にとって偶然に過ぎない場合、言い換えれば、他の何物にでも置き換わり得る場合、PS1水準(あるいはそれ以下)まで落としてしまっても、そのゲームは元々の形と同様に面白い筈である。これはマリオカートとかテトリスとか、比較的シンプルなゲームに偏っている気がする。

 

ゲーム業界には『ゲーム性神話』みたいなものがあると思う。それはおそらく任天堂から来てると思うんだけど、こうやって並べてみると『システム以外の全要素がゲーム性の構成要素に非ず(またはそれに近い)』というゲームが、最終的な境地での最高傑作になるとは僕には思えないのだ。

 

映像的必然も音楽的必然もその他諸々の必然も揃って初めて成り立つゲーム性、という方向性の方にこそ、僕は真実を感じる。そういう意味ではテトリスはある種システムでゲーム性が自己完結しているから、どれだけ工夫しても最高傑作にはならない。言い換えれば『あの方向性に黄金はない』訳だ。

 

マリオカートテトリスと同じ括りかと言うと違う気もするが、『システム単体でもゲーム性は不変』という意味においては同じカテゴリーだ。究極まで映像と音楽をそぎ落としても、システムさえ残れば面白さは不変なのだ。でもそれは逆に言えば『全要素をゲーム性に絡めていない』ということでもある。

 

但し『構成要素としての強弱』はあるだろう。グラフィックがゲーム性を可視化するツールに過ぎないのなら、それは大して強くないし、むしろ弱い部類に入る。どこまで行ってもシステムありきだし、それはゲーム性の成立と破綻に関わる問題だ。そこを神話にするのは問題ないが、混同がある感が否めない。

 

ゲーム性の構成要素の中核をシステムに置くのは問題ない。僕はそういうゲームの方が好きだし、いわゆる『雰囲気ゲー』はそれほど好きじゃない(ゲームにもよるけど)。ただ、システムが中核だとしても、それ以外の諸要素を構成要素に昇華する視点が要らないということではない。

 

人物、世界観、物語、展開、映像、音楽、効果音、声役、エフェクトなど、ざっと並べただけでもいろんな要素があるし、これらをゲーム性を可視化するに留まらせず、ゲーム性を形造る不可欠な要素に昇華する方が、ゲームとしては傑作になる。偶然的なものをなくすことの方が、作品的には美しくなる。

 

必然性の質と量の集積、及びその密度と継続性によって、面白さというのは決まると思う。但しベルセルクの蝕のようなテンションを全編貫き通すというのも矛盾なので、どうしても波はあるけど、基本的にテンションは必然性の集積の感知と比例関係にあるし、だからうちの親はベルセルクを楽しめないのだ。