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THINK ABOUT SOMETHING.

学術的グーグルをアプリに

ScanSnapで自炊してた頃、OCRで文字検索できるようになることが一番嬉しいポイントだった。例えばレイ・カーツワイルのことを調べたい時に、手持ちの書籍全てに対して横断的に検索をかければ、書籍数が多くなればなるほど一つの学術的グーグルができあがる。

 

本来のグーグルはパブリックな情報の為の検索ツールだけど、この学術的グーグルは書籍が売られているものである以上、クローズドな検索ツールということになる。だから相当な書籍コレクターでない限り、情報の固有性は得られるかもしれないが、情報の量では本来のグーグルに匹敵し得ないだろう。

 

しかしこれが電子書籍ストアだとどうなるか。情報の量では依然として本来のグーグルに勝てないが、質と量を掛け合わせた総和で言えば、キーワードにもよるけど、パブリックな情報横断で得られるものを上回るのではないか。即ち図書館に引き篭もって資本論を書くような行為の効率が、格段に上がる訳だ。

 

それを実装するにはMusic Unlimitedみたいに、Book Unlimitedを作ってしまうのが理想だが、読書された書籍の比率で定額徴収を分配する、というモデルが本にも通用するのかどうかは分からない。それができればここから先のプランは意味がないけど、とりあえず書く。

 

検索ワードで引っ掛かった全ての書籍の全てのページの全ての該当行は、一行の場合無料でお持ち帰りできる(時間制限あり)。次に該当行を含んだ該当ページの前後数ページを、従量制でお持ち帰りできるという課金モデルを設け、これは単純に書籍のページ単価に掛け算した値段を徴収すればいい。

 

但し前後数ページのどこまで含めるかを決める為には、先ず読めなければ話にならない。だから人間が各ページを流し読み(≠ページの読破)できる最低限の速度に達する度に、そのページは購読しない限り一定期間開けなくなり、そうやってスピーディーにお持ち帰りするページ範囲を決定する。

 

言わば図書館の端から端までを、一瞬にして網羅的に全検索できるという偉業を、タブレットでやってのけるのだ。学術的な用途がメインになると思うけど、レンタルでも購買でもない『ページ買い』という新しいジャンルを築く。更にそれらをキュレーション的に再構築する機能もアプリに設ける。

 

これは著作者にとっては潜在ニーズの揺り起こしに繋がるし(購買されなくなるというオチはあるけど)、利用者にとっては上質な情報をサーフィンするツールとして、またそれをスクラップするアプリとして、とても重宝するだろう。世界中の総々たる書籍が研究の味方になる訳だ。

 

電子書籍ストアの中にもう一つの上質な学術的グーグルを作る。この構想は僕がユーザーなら飛びついて利用するし、キーワードに対する世界中の説明、世界中の視点、世界中の批評が一瞬で手に入るというのは、あらゆる学者にとって理想的な研究形態になるんじゃないかと思う。

 

デイトレードがかつて一部の人間の特権だったのが、インターネットの普及で市民権を得たように。世界中の全ての書籍を閲覧できるという一部の人間の特権を、条件付きでパブリックに。この構想には夢があるけど、Book Unlimitedまでの繋ぎにしかならないような気はするけどな。

 

でもよくよく考えたら、このアイディアはこのままでは複製を防げないな。スキャンできない紙があるように、スキャンできない液晶表示ができればいいのだけど、まだもうひと捻り要るな。

 

常時カメラを起動した状態で、顔認証し続けないと読み進められないとかかなあ。仮にスキャンしようものなら顔認証が途切れて、その途端アプリも強制終了すると。でもこういう回避策は、往々にしてクラッシュの原因になるからなあ。

 

追記だが、斜めからのスキャンやグラス型端末からのスキャンには対応できない為、いっそのことグーグルグラスのアプリにしてしまえば問題は一応解決する。解像度的に初期のそれでは厳しいと思うけど、これぐらいしか線はないなあ。

デュシャンこそアート

ダリを知り始めた当初は凄く好きだったんだけど、最近ではシュルレアリスムダダイズムアンフォルメルに否定的な立場を僕は取っている。でもそのことと例えばシュルレアリストが否定されることとの間に、一対一の因果関係はあるのだろうか。

 

僕が言いたいのは、シュルレアリスムが単にランダムウォークと結び付いている間は、終末状態からの退行ないしは劣化としてしか成立しないという意味において、それは駄作なのだ。ダリが比較的評価されている理由は、ランダムウォークに見せ掛けたフレームワークの殺し屋というギャップにあると思う。

 

本来ランダムウォークフレームワークを殺せない。言い換えれば、有限の檻から脱獄することができない。その不可能な立場のものが不可能を突破せしめたと思わせる詐欺師がダリであり、このギャップはロールキャベツ男子じゃないけど、その日暮らしの大衆には間違いなく受けがいいのである。

 

アンフォルメルがフォーマルになる。この世紀の大嘘を差し置いてダリは語れないし、それは閉塞感の最中に居る人達から一定のフォロワーを生んだと思う。ダリに傾倒した当時の僕もその一人だし、しかし有限が無限に肯定されていくという矛盾には、割と早く気付けたと思う。

 

あるいはそれに気付きながらもそれに気付かぬフリをする、即ち無限に傾倒しながらも、言い換えればアンチ・シュルレアリストになりながらもシュルレアリストのフリをするという、ダリが計算した嘘のフォロワーではなく、ダリと同じ打算ができる本来のフォロワーになりつつあった。

 

そういう意味では僕は初期の頃からシュルレアリストでも何でもなかったし、それを志向しながらもダリのついた大嘘をフォロー(追体験)するという、詐欺師の仲間入りを果たすだけに終わった。もちろん僕の作品にそれだけの強度はないけど、ベクトルとしてはダリの詐欺と統一されていた。

 

おそらくそういう諸々もあって、僕はある段階でダリが嫌いになったけど、有限は無限にはならないという批判、無限に肯定されていくシュルレアリストは矛盾であるという批判、言い換えれば評価されるシュールはそれ自体が矛盾であるというダリ批判は、シュルレアリスム否定へと繋がっていく。

 

そう考えるとシュルレアリスム否定とシュルレアリスト否定との間には、一対一の因果関係があるし、僕が芸術において一つの審美眼としている『終末的か否か(それはオリンピックか)』にか弱く抗う者として、まるで火に入る蚊の如くして、即ち火に非ざる者として、容易く滅んでいく。

 

以上のようなことから、秀でたシュルレアリストの一部を切り取って、彼を特権的に評価するということは無理なのだ。彼がシュルレアリストかどうかも怪しいし、本当にそうであるならば評価され得ないという、どちらに転んでも詰みの状態。もちろんこれは僕の評価軸に限られた話ではあるけども。

 

でもここまで書いといて何だが、ダリは一級の芸術家だと思う。デュシャンにしたってアンフォルメルに見えるけど到ってフォーマルだし、あれは外見的なフレームレスと内面的なフレームレスが一致した稀有な例。鮮明な前者を導く後者は極めて珍しく、彼こそステレオタイプな芸術家像に相当する。

 

純粋な意味でのアンフォルメルは、フォーマルな無限肯定には絶対届かないし、デュシャンが評価される限りにおいてそれは一級であり、フォーマルということなのだ。そこに理性的に到達しても本能的に到達しても芸術家には違いないが、後者を芸術とする神話に沿えば、デュシャンこそアートだとも言える。

ラストステージとしてのあるがまま

自然状態を神聖視する思想がある。どうやらルソーはそう主張していないみたいだが、この考え方はある程度流通しているように思う。でも自然状態って言い換えればアンフォルメル(Chaos)だから、自由や幸福なんてそこにある訳がない。

 

自然状態の対義語はおそらく『終末状態』に当たる。それは人間が、言い換えれば唯一言葉を使える動物だけが、世界を導いていくその果ての世界を意味するが、僕は宇宙的事故が起こらない限り万物は進展する、という考え方だから、自然状態と正反対の方角こそを神聖視する。

 

自然状態は逆説的にフレームワークを有し、その対義語の終末状態を連続的に演奏することができない。ピアノの前に座らされて、ランダムウォークが名曲を描く可能性は、ゼロに等しいを超えてゼロなのだ。瞬間的に名曲の一部を鳴らしたとしても、連続的には滅びていくのだ。それがフレームワーク

 

翻って終末状態とはフォルム(Order)のことだから、フレームワークがなく、名演奏は永遠に鳴り響いていく。以前の言い方を借りれば『無限が無限に肯定されていく状態』で、それは三島が言うように『不滅』なのだ。有限と無限。滅びるものと滅ばざるもの。どちらを目指すべきかは明らかだろう。

 

また自然状態としてのあるがままであれ、終末状態としてのあるがままであれがあって、前者は天然の延長線上でのみ語られ、後者はハードウェア的な焼き付きの帰結として語られ、それは例えばキース・ジャレットの完全即興のようなものだ。即ち『天才には許されざるものがない』のだ。

 

どこへもどこまでも、いつでもいつまでも、肯定が止まらない。如何に動いたとしても全て肯定されることを宿命付けられた、聖なるあるがまま。これこそが終末状態・フォルム(Order)・無限なのであって、これらを全て反転させた対義語の方角に何を期待できるというのか。

 

本当に純粋な意味での天然からはキース・ジャレットは生まれない。素質はあったかもしれないが、それだけでは素養は備わらない。陰徳陽報ではないけど、陰で『かくあるべし』を焼き付かせ、陽の目を浴びる舞台で『あるがままであれ』とする。ここ(陰陽)を混同するからややこしくなるのだ。

 

プロセスとしてはかくあるべしでも、終末状態それ自体はあるがままであるべきなのだ。芸術家に限らず、人間としてそこまで行くことができれば、きっと世界は俄然楽しいものになるだろう。何を行っても肯定と紐付けられ、無限が無限に肯定されていくステージを、ただあるがままに歩いていく。

 

ちなみにベルセルクの『あるがままであれ』がフェムト的な意味での『かくあるべしとの合致』であるならば、それは無理だ。それは何の素養もない少年がキース・ジャレットの完全即興を描くことと同義で、そう考えると無数の矢がグリフィスに当たらなかった描写でベルセルクは終わったのかもしれないな。

今を生きる

『精神的に病む』ということの定義について考えたことがある。例えば家族全体で10のキャパがあって、しかし生きていく為に11のことをこなさないといけない場合、その中の誰かがキャパを上回る仕事(11-10=1)をこなさざるを得なくなる。

 

その割を食う人間の過剰分が強烈だったり、あるいは小さくても積み重なったりすると、それが病になるのではないか。後者は説明するまでもないが、前者は例えば離婚などで家族を失った人で、仮に貯金があって生活的キャパに問題がなくても、精神的キャパには一気にひびが入る訳だ。

 

そういう強烈な体験で一度精神が脆弱になってしまうと、元来のキャパに収まる生活に戻ったとしても、その時点でのキャパは目減りしているから、対応できなくなってしまう。その目減り分というのは要するに、内面的な苦悩であり、過去に囚われるとキャパを侵食してしまうのである。

 

僕の友達の昔からの持論で、最近になって考えが変わったものがあるのだけど、それはお金が死ぬまで無制限に使える権利があれば、ほとんどの精神病は治るというものだった。でも欲求が全て満たされるということと、苦悩が全てなくなるということは、別問題だったりもする訳だ。

 

例えばいくら自分が恵まれていても、世界が醜いのに何故自分だけ充足できるんだ、という人は実際に居たりする。その人の話を聞いた時に友達の考えは無理があるな、って思ったし、しかも世界の醜さなんていうのは終わらないテーマだから、そこに囚われる限り病も終わらないなと正直思ってしまった。

 

全てではないにせよ、キャパ以上のことを抱えている人間のドロップアウトが精神病であるならば、健常な頃の自分との差分(クラッシュ因子)に真摯に向き合うことが回復に繋がるのではないか。人間には感情があるから、筋道立てるだけの生き方は難しいけど、そこにメスを入れるべきなのではないか。

 

例えば失恋の後に精神的に病んでしまうとする。この時『失恋した』という事実以外の全ての環境が以前と同じものに固定されていた場合、その人の病んでいる原因=クラッシュ因子は失恋以外の何物でもない。

 

逆に言えば失恋という過去をどの時間軸に移植しても、そこから後の私生活は全て病的にクラッシュされる。それを更に逆に言えば、失恋した直後に失恋の過去を忘れられたら、失恋する以前の精神状態で私生活に臨める。過去は変えられないけど、その変えられない過去の有無だけで、人生は激変する訳だ。

 

もちろんスイッチを押したみたいに、過去を急に忘れるなんてことはできないし、どこまで行ってもそれは虚勢だ。しかしその虚勢が自然体をいつかオーバーライトするのであるならば、暗い過去に関しては全部忘れるフリをするに限る。暗い過去が形成された更に過去、そこと同じ精神状態で今に臨むのだ。

 

明るい過去だけを財産に、暗い過去は全てゴミ箱に。もちろんそういう生き方が砂上の楼閣であることは否めないが、『気丈に振舞う』ってそういうことだろう。変えられないものを変えようとして悩むぐらいなら、いっそのこと清算してしまった方がいいのである。

 

毎日『今を生きる』の精神で。そこに明るい過去が下積みされていけば、一つの輝かしい一貫性が生まれる。失恋しても、変わらずに強く居る。家族を失くしても、変わらずに強く居る。しかし明るい記憶だけは今に刻むから、人としてどこまでも強くなっていく。

 

それが本当に理想かどうかは分からないけど、メンタルの波を制するって、そういうことなのかもしれない。あっち行ったりこっち行ったりせず、宮沢賢治のなりたかった人のように、いつも笑っていられるような強さが僕にも欲しいし、その為には自分自身に嘘をつくことだって必要なのだ。

自分自身のオーバーライト

無意識的に行っていることは意識的に行ってきたことのハードウェア的な焼き付きだ、という説を過去に見た。例えば何の知識もなかった頃、僕は自転車のブレーキをかける時右手からかけていたが、リアブレーキ(左手)からかけるべきだということを知り、そこからはずっと意識的にそうするようになった。

 

いつも右手からかけていたから、最初はとても違和感があったけど、今となっては無意識的に左手が先に動くし、「ああ、これのことなんだな」とふとした時に気付いたのだ。要するに『癖付け』であり、『無意識のオーバーライト』であり、しかしそれはHDDと比べるまでもなく、要する時間は桁違いだ。

 

何が言いたいかというと、無意識的なもの、性格的なもののある部分を変えたい時、自転車で右手に対して左手を出したように、それが出そうになった時にその反対のものを意識的に出すようにすればいい。そうすればそれがハードウェア的に焼き付いていって、最後は無意識がオーバーライトされるのだ。

 

しかしこの無意識のメカニズムは、意識的な挙動によってのみ書き換えられる訳ではない。人は意識的にも成長するが、無意識的にも必ず成長する。過去に僕が言った『学んだ訳ではない漢字が読めるようになる』がその分かりやすい例だ。ハードウェアは絶えず焼き付いていくものなのだ。

 

それはミスチル風に言えば『知らぬ間に築いていた自分らしさの檻』であり、その自然形成された自我に仮に満足しているとしよう。しかし友達の言葉だけど、彼が「ある何かに満足することでそれ以上のものを曇らせることがある」と言うように、意識的に上を取っていく審美眼も要る訳だ。

 

無意識的な成長というのは、例えば成長期までの人間の身体が図らずとも結果論的に成長するようなもので、しかしそれを彫刻のような身体にまで持っていこうと思えば、意識的なトレーニングが欠かせなくなってくる。要するに、無意識的成長の伸び代は意識的成長の伸び代に劣るという訳だ。

 

多少の誤差はあれど、理想的な肉体、理想的な精神のイメージはある程度共通しているし、肉体にしろ精神にしろ、だらしのないものは基本的に憧れの対象にはならない。そしてその憧れの対象者自身は、肉体的な場合でも精神的な場合でも、意識的にそこに辿り着いたケースがほとんどだと思う。

 

ある程度共通しているということがどういうことかと言うと、誰もが理想の側に立てるということだ。全ての理想が隔たっている場合それは無理だが、オーバーライトするべきものの一定の法則性がそこにはあり、松ちゃんが小さい頃から落語を見ていたのもその踏襲で、純粋な天然の天才など存在しないのだ。

 

但し僕は精神の理想にベルセルクの『あるがままであれ』を置く。精神の無限性に際限なく実効性を持たせた状態のあるがままを、人間の最高峰とする。これは上述した意識的成長(『かくあるべし』)と相反するように思われるかもしれないが、この聖なる子供帰りはとてもテクニカルなものだ。

 

そういう意味で松ちゃんに限らず芸術家的な人間は、子供帰りのテクニックを意識的に積み重ねている。言わば『あるがままであること』を『かくあるべし』にしていて、これは三島の『決定されているが故に僕らの可能性は無限であり、止められているが故に僕らの飛翔は永遠である』に通じるものがある。

 

フォルム(Order)にはフレームワークがなく、無限ないしは永遠であり、アンフォルメル(Chaos)にはフレームワークがあり、有限ないしは一時であるという逆説。コンピュータのランダムウォークが後者であり、その見せ掛けの無限は人間の秩序的な無限に勝てないという逆説。

 

聖なる子供帰りの利権争い(最も大なる無限の夢見)がアートであり、それは最も深なる感動と紐付けられている。それをフォルム(Order)の究極とすれば、そこにはアンフォルメル(Chaos)の立場からは永遠に到達できない。彼等はブレイクダンスも踊らなければ、トリプルアクセルもできない。

 

そう考えるとフォルム(Order)は無限への途であり、アンフォルメル(Chaos)は有限の檻なのだ。無限が無限に肯定されていくのが前者の究極だが、後者の究極は、有限が肯定の条件を一切満たさないという最低の状態を指す。シュルレアリスムが正にこの状態で、誰もが同じように廃れていく。

 

シュルレアリスムは無限の相を持つようで似たり寄ったりに過ぎず、有限的。翻ってフォーマルな活字は逆に無限の相を持っていて、そのどれもが無限に肯定されていくという理想をある程度体現している。この違いはやはり大きいし、それがフレームワークの有無ということの真意なのだ。

 

結論としては、松ちゃんのようにフォーマルになる部分を自分の中に置くべきだということ。無限を無限に肯定させる為のオーバーライトは、苦労してでも買って出るべきだということ。身体が枷になる以上完璧ではないが、人間はある程度自由に変われるということを信じてみよう。

2045年問題論

物理学の世界では尺度の最小単位をプランク長として定義しているが、例えば狭い正方形があるとしよう。この正方形の中心から右半分の180度の範囲内で、無限に細分化した各角度の線を引くとする。すると右方向への移動量は、プランク長を更に細分化したものとして無限に観測することができるだろう。

 

また精神というものを考えた時、それは有限を無限に細かくした第二種の無限ではなく、宇宙のように無限に広がっていく第一種の無限(永久機関)であり、何故なら仮に精神が有限であるならば、物理的な寿命とはまた別の寿命が存在しなければならないが、誰もそれを見たことも聞いたこともないからだ。

 

例えば動物の寿命が10倍になる研究があるけど、あれが実用化されたとして、肉体の老化速度が1/10になるということであるならば、200歳でも20代の精神力はキープされると思うのだ。要するに精神が有限であればどこかで平均寿命に頭打ちが来る筈だが、その気配はなく、当面は肉体依存なのだ。

 

精神は肉体よりも大きく、真の無限だが、肉体に依存する以上有限に囚われ、しかしその有限もまた無限の分解能を持っている。言わば第一種の無限から第二種の無限への退行であり、しかし本質的には精神は真の無限である。これより大なるものはあり得ないし、それを宿せない人工知能などか弱いものだ。

 

僕は無限・自由・永久機関をほぼ同義で扱っているが、コンピュータは電気的に動く以上、間違いなく永久機関ではないし、生物の世代交代以外にそれを再現する術はない。彼等のおこぼれとして成り立つ人工知能は、有限且つ代償を求めるものであり、第二種の無限にしかなり得ないのだ。

 

結果2045年問題は否定される。第二種の無限を無限に大きくしたところで第一種の無限には勝てない。エミュレータが実機以上のグラフィックを描画するという例を出しても無駄なことで、実機がそもそも真の無限なるスペックなのに、そこから再構築したものが何故それ以上に大きくなることができよう。

 

即ち肉体的制約を受けないイマジネーションの領域で、コンピュータは人間に太刀打ちできない。そこにアートの必然性を見出すこともできるし、それこそが最も人間的な領域であるという逆説を唱えることもできる。これは以前の僕の説と何ら矛盾しないもので、生活にアートを宿すことを第一義とする訳だ。

 

逆に言えば肉体的に過ぎない領域に閉じ篭る限り、コンピュータは人を超え得るだろう。ちなみにイマジネーションの対義語をここではルーチンとし、決して右脳と左脳と言った旧来の定義にはしない。このルーチンワークに関しては、従来通りコンピュータに任せていけばいいのだ。そこはそのままでいい。

 

上手く言葉にできないが、要するに、肉体的制約を受けない領域が実効性を伴った場合、それはイマジネーションから来るアートとなり、逆に肉体的に過ぎない場合、ルーチンワークにしかならないのだ。イマジネーションの羽ばたきがないものが実効性を伴ったもの、それが旧弊な意味での『仕事』なのだ。

 

もちろんこの考え方――生活にアートを宿す生き方――が全ての仕事を救済するとは到底思えない。便所掃除にそれが適用できるとは思えないし、廃品回収にそれが適用できるとも思えない。2045年問題はそういうところだけを片付けて、残りの僕等は生活をアートにすればいいだけなのだ。

 

仕事を通じて人間として輝きたいという欲求は、思っているよりも幅広くのワークに宿せるが、ケースワークをアートワークに変える術というのは、昇り調子だけではなく、悶々とした葛藤や退行も含まれる筈だ。即ちイマジネーションは極めて広義であり、完璧への一直線だけが全てではない。

 

例えば画家が一気呵成に全てを描き切ることもあるだろうが、悶々とした葛藤や退行も傑作の因子になり得る筈で、そういう実効性を伴った精神活動だけが僕達の、人間の、芸術の交換不可能性を証明する。人間らしさはむしろそういう曖昧さから来るもので、そこでの闘いが、いつの日かのアートになるのだ。

 

だから膨らまないルーチンワークに人工知能を、膨らみ得るケースワークに人間とアートを。2045年問題はこの棲み分けを明確化するものであればそれでいいし、それ以上のことはできないというのが僕の直観だ。カーツワイルは無限より大なるものを目指すという実態について、一体どう考えているのか。

 

大きな声では言えないが、僕はそれは成立しないと予言しておこう。コンピュータに無限の臨機応変さなど成立しない。悩み、葛藤し、その末に自動書記するということもできない。そしてコンピュータが単体で自我を持つことも、絶対にない。彼等が永久機関でない限り、これらは全て不可能なことなのだ。

 

もの凄く分かりやすく言えば、CPUの性能がどこまでも大きくなっても、定格クロックがある以上無限そのものにはならない。有限が無限に大きくなっていっても、数値化された時点で無限ではない。無限とはアプリオリにそうであるもので、しかしコンピュータはアプリオリに無限ではない。これが全て。

要介護者のモラトリアム権

ここしばらくツイートを控えていたが、介護職員初任者研修を受講して思ったことを書く。先ず僕は記憶力が弱いし、体系的に全体を俯瞰する能力も不足しているので、甘い考えになっている可能性は否めないことを断っておくが、それでも書く。

 

僕はメンタルに病を抱えてどん底を経験した時、それまで好きだったハッピーなメロディーの曲が全部嘘に思えた。フレーズで言えば『陽はまたのぼる』とか『やまない雨はない』とか、そういう類の言葉がつらかった。とても上を見ることのできる精神状態ではなかったし、容赦ない言葉にしか感じなかった。

 

メンタルの世界では理解のない、または(いろんな意味で)余裕のない家族はともかく、基本的にはそういう人を下支えする。その人がその人自身の意志で変われるようになるまで原則として強要しないし、下支えというのは上を向かせることではない。最終的に意志を決定するのは他人ではなく、本人なのだ。

 

ところがだ。介護保険の理念だと『生活能力の維持または向上』ばかりがフォーカスされていて、その人の『上を向く余裕のなさ』はフォーカスされていないという印象があるのだ。それは裏を返せば制度の側の都合、家族の側の都合が優先されているということではないか。

 

要するに『強要』というとオーバーだけど、下支えせず、顎を持ち上げて上を向かせる。持ち上げることそのものに悪意はないかもしれないが、余裕がないのは高齢者も周り(家族や介護者)も一緒なのだ。そこで家族の側や介護者の側が一定の努力を見せず、本人にばかり努力させてたら、そりゃイヤになる。

 

ここでいう努力というのは『原因を見てそれをケアする』ということだ。対症療法ではなくてね。施設の実習にも行かせてもらったが、本音で言えばままごとをしているみたいで、僕で言えばハッピーな曲が絶望にしか感じなかった状況に酷似しているなと思ったし、全部が全部上辺に感じたのだ。

 

でもここまで書いておきながら分かってるんだけど、その原因へのケアというのは相当難しい。メンタルの世界でも僕が聞いたところによると、今や投薬治療がメインになっているみたいだし、じゃあどうなるかと言うと、制度が暗黙的に『そこまでケアする余裕はない』という態度を示す。

 

具体的にそんなことは言わないけども、自立支援という大義を掲げてそれを隠してしまう訳だ。すると割を食うのは高齢者の方で、しかし高齢者の側は向こうが大義を掲げている以上、反論がわがままという扱いになる。僕はそれこそ上辺で、それは違うと思う。怖いなとも思う。

 

隠し通してる側がまかり通って、何も隠していない本音の側が大義につぶされる。その(高齢者の)本音は大義の裏にある(制度側の隠している)本音に届かなければならないのに、その手前でシャットされる。高齢者の方は正直思考力も低下しているところがあるし、尚更そうなってしまう訳だ。

 

ただ僕が思うのは、メンタルの世界では投薬治療がメインなのだとしても、下支えの精神がある。顎を持ち上げて上を向かせるようなことはしないし、下を支えて、いつでも本人の意志が上向くことができるようサポートする。これが理念なのかは分からないけど、素晴らしいことだと思う。

 

それこそが周りの努力的な部分で、例えゆっくりでもステップを踏み続けることが本人の努力的な部分で、これらが釣り合って初めて健全と言えるのに、要介護者の場合、その本人の側の努力重視になってしまっている。自立重視なんて言葉はないかもしれないけど、それと重ね合わせて、正当化されている。

 

逆に周りの側の努力的な部分が本人に届けば、その本人も動こう、変わろうと思える時が来るかもしれない。僕は『時は薬なり』と思っているし、大体のことは時間が解決するものだと思っている。もちろんそこに前向きな意志がなければ変わらないけど、それは本人だけの問題ではないのだ。

 

但し自分の転機(=決定に到る道)なんて自分にしか分からないし、そこに他者が強制的に導くなんていうのは絶対に傲慢だ。決定するのは本人であって他者ではないし、その道中で決定権を剥奪するような介護が、メンタルの世界と真逆だと思ったのだ。決定までの道を迷うプロセスも一つの権利なのだ。

 

その傲慢さ(=周りの強要)が出た時点で切れられても仕方ないのに(これは決して逆切れではない)、上述したように、それ(=迷う権利の主張)は大義によってわがままという扱いになる。自立の尊重か意志の尊重かという問題がそこにはあり、しかし前者ばかりが優先され、後者の声は黙殺されている。

 

メンタルの世界では全てではないにせよ、『時間をかける』『本人を信じる』という精神があると思う。それが高齢者の介護においては欠けていて、例えば喪失体験で心の足に傷を負っているのに、その足で歩かせようとする。その先に行かなければいけないのは分かっていても、やり方というものがある訳だ。

 

吉本孝明は「ひきこもれ!」と言っていた筈だが、それは「迷う権利を取り戻せ!」という意味だと僕は解釈しているし、それを介護保険制度に当てはめると『モラトリアムカットへの異議』ということになる。要介護状態の高齢者の声なき声――精神的猶予の訴求――がそこにはある。

 

お歳を召されている部分があるから、あまり悠長なことは言ってられない面もあるかもしれないけど、理想と現実の間でかなりの隔たりがあり、理想からかなり下の方で妥協されているというのが僕の本音だ。そしてその妥協に高齢者の側の合意というか、意志反映はほとんどないと思うのだ。

 

僕の場合被害妄想だったけど、高齢者の場合喪失体験が引き金で地獄を見ている部分はあると思う。そこはメンタルの世界と同じ扱われ方をされるべきだと僕は思うし、理想論かもしれないけど、上辺のケアではなく、本音へのケアがなされるべきだと思ったな。

 

最後に本音で言わせてもらえば、本人の意志がそうであるならば、閉じこもるのもアリだと僕は思ってる。本人が努力して、周りが努力して、それらが釣り合った上での最後の結論がそうであるならば、それは本人の自由だと思う。そこで自立を目指すのが一番だよ、と言い切ってしまうのが僕は怖いのだ。

 

周りばかりが努力してそれならわがままだし、本人ばかりが努力してそれなら当然の結果だし、でも両方が釣り合ってそれであるならば、最後は周りではなく本人の意志が尊重されるべきだろう。とても仕事できる状態ではないという結論に到った人に仕事を強要しないように、最後は本人が選択するべきだ。

 

もちろんそうすると今度は周りの負担が増えるけど、お互いが最大の努力をした結果がそれであるならば、ある程度納得できる部分はあると思うし、それもせずに不満を漏らしたり強要を優先するのは違うと思う。ただ一方で介護疲れという側面もあるから、そこも包括的にケアできる仕組みが必要だとも思う。

 

結局全てを平均化することなんてできないし、どこかが必ず割を食うんだけど、それを食らってるのが現状高齢者なのではないか、というのが僕が今回受けた印象だった。『自立』を振り翳されると何も言えなくなるけど、それでも声なき声はちゃんとあるのだし、そこに真摯に取り組み視点も必要だと思った。

 

「自立に向けて頑張ろう?」という声と「あなたの頑張りもほしい」という声は本来等価。そこを等価にせず、割を食わせるのが問題なのであって、自立を目指すこと自体は基本的に正しいもの。だけど余裕のなさの押し付け合いをして、誰かが割を食う……それが介護の世界の実態だと個人的には思った。

 

精神病者にしたって要介護者にしたって、何もしたくない時はある。閉じこもりたい時もある。それは自分が精神に病を抱えた経験から分かることだし、その時に僕の意志反映(ひきこもりたい)が許されたように、要介護者の意志反映も、甘いかもしれないけど、ある程度許されるべきだと僕は思う。

 

例えば片麻痺で天涯孤独で、介護保険のお世話にならざるを得ないという時に、そこに上辺の希望しかなくて、実態的にはゲームオーバーというような空気。その原因の一つが自立を振り翳されることによる自由意志のシャットで、表現がややオーバーだが制度の言いなりにならざるを得ないという問題。

 

こんな問題をフォーカスしても仕方ないのかもしれないけど、周りの意志と本人の意志を等価(またはそれ以上)にしようとする精神がメンタルの世界にはあるのに、介護の世界ではその意識が乏しい。要は介護者の側に一定の線引きがあり、等価なところでその線を引かず自分に有利なところで線を引く。

 

これはおそらく要介護者には見透かされてると思うし、温度差というか距離感というか、それは確実に覚られてると思う。でもそれに反論できないような風潮があるから、実質ゲームオーバー。なんか同じところをぐるぐるしたけど、結局僕が言いたいのはそういうことだ。