独創性の聖なる肯定
神谷英樹のツイートをお気に入りに入れたけど、その内容で思うところがあったので書く。要するに、黎明期における独創性の可能性みたいな話だ。
これについては僕も再三言ってきたと思うけど、独創性というのは基本的に『堕りていく』という行為なんだよな。これは厳密にルール化された競技ほどそうなる仕組みがあって、ゆえに詩なんかではその限りではないのだけど、例えばリリースされたばかりの格闘ゲームはプレイスタイルがバラバラだ。
それが次第に解析されていって、最終的には誰もが同じような動き=プロになる。別に格闘ゲームじゃなくても現実のボクシングでも何でもいいんだけど、プロになるほど動きが似通ってきて、独創性が無効化されるということは、逆に言えばそこから退行したところに独創性は根付いている。
僕はこれをいつもピラミッド的に想像するんだけど、独創性というのは底辺的なものであり、普遍性というのは頂点的なものであり、その頂点とは一点であるからして、その他一切の独創性を寄せ付けない。僕はそこを目指すのが本来筋だと思ってるから、独創性という言葉にはいつも懐疑的だった。
黎明期というのは普遍性ないしはその近似がまだ周知ではないから、独創性が許されるというか、段階的に通用する。そういう意味で僕は今更過去のアーケードゲームをやろうとは思わないし、それは現代的には無効化されたものだ。もちろん無効化されたものの中から革命が起きる可能性はあるんだけどね。
厳密に言えば独創性という言葉をどう定義するかにもよるんだけど、単純に可能性を解放するという意味なら、それはやはり『堕りていく』という行為になりやすいし、この法則性は時間経過と共に完全になっていく。上では『なりやすい』としたが、これが完全に『なる』に帰結していく。
普遍性の究極に無効化されたところに巣食う、という生き様もアリだけど、理想的にはやはり頂点を目指すべきだろう。但しここまで書いといて何だが、ゲームはどちらかと言うと詩に近いから、頂点的なものが絞られていない。即ちルールが曖昧だからある程度の横幅がある訳だ。
僕は頂点的なものの一つにゼルダを挙げるけど、その横幅はまだ完全に満たされていないと思うから、そこで独創性を使うのは全然アリだと思うし、神谷英樹の独創性は堕りていく妥協の独創性というよりも、そういう頂点をシャッフルする独創性というイメージはあるかな。
結局ルールの厳密性と頂点の厳密性はリンクしていて、ルールの厳密化は頂点を狭くフォーカスする作用を持つ。即ちルール化するということは王者の量を指定するということであり、独創性はそれを可視化する為にこそある筈なのだ。独創性の肯定は普遍化でしかあり得ない、それが僕の基本的な立場です。
でも少し視点を変えてみれば、王者同士の対戦が必ずしも最も刺激的ということにはならないというのはある。肉に対する野菜かもしれないけど、王者未満の領域にしかない旨みも確かに存在する。そう考えると結局は視点次第で独創性の肯定パターンというのは、いくらでも定義できるのかもしれないな。
ここ数日のつぶやきと照らし合わせて考えると、普遍性というのは葬られた諸々の独創性に対するレクイエムとしてあるのであって、そこに立つ者は総じてネクロマンサーであり、同時に最高峰の自由意志を持つスーパースターだ。この独創性の呪術的イメージを知らずして、独創性は語れないのかもしれない。
普遍者は総じて独創性を踏襲しているし、即ち独創性とは理想にとってのプロセスであり、あるいは征服跡地であり、それは三島の「作れないものはない」という発言に表れている。もちろん三島にもできないことは山ほどあるけど、あの大いなる自由意志の射程は独創性の埋葬量から来てる気がするな。
結局のところ普遍性がそれ自体で存在することはあり得ず、独創性の捨象的帰結としての彫刻がそれなのだ。そういう意味で三島は寺山を征服的に通過しているし、石原も征服的に通過しているから、彼等は同じ土俵で戦っても勝ち目がなく、真の普遍性というのは即ち『小を兼ねるものの最大』のことなのだ。
未満の全てを兼ねるからこそ、未満の全てに普遍的であれるという言い方も成立するかもしれず、これは人間の個人史にしろあるいは世界史にしろ、今現在この瞬間が過去の全てよりも美しいという原理と同様かもしれない。即ちそのベクトルの全てを兼ねるということこそが、逆説的に最も独創的なのである。
ちなみに三島にランボー的なことができないことと、ここまでの考察は別に矛盾しない。三島にとっては不随意的なもの――端的に言えば贅肉――でも、それはランボーにとっては筋肉であり、これは逆についても同じことが言える。ランボーは三島の未満でもあり、三島はランボーの未満でもある訳だ。
しかしそれらは『兼ね得ないものとしての未満』であり、例えばライト級のボクサーも相撲取りには敗北する。彼が征服した筈の贅肉で構成された人間に、喧嘩で敗れる訳だ。それを未満の不随意性――即ち独創性――と呼んだとしても、それは縦に対する横の運動なので、縦的な無効性は解除されないままだ。
だから三島にとってランボーは過去の横運動で、ランボーにとって三島は過去の横運動で、それらをどう見れば縦になるかは、その見ている人間の立場によるだろう。僕にとっては三島が縦に映ったし、おそらく僕の友人であればランボーが縦に映るだろうし、そういう独創性なら全然アリなのかもしれないな。