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THINK ABOUT SOMETHING.

ファイトクラブ批判

精神的豊穣と物質的豊穣について考えてみることにしよう。


精神的豊穣を「最後に拠点となるもの」、物質的豊穣を「精神を仄めかすもの」だと定義して、出逢いの入り口はどこまで行っても物質側(外見)だから、精神の翻訳者としての服装がそこで生きてくる訳だが、ここでハッタリを噛ましてもそれは直ぐに破綻するので精神相応の服を大体の人が着ている。


付き合う以前のレベルでも一緒に行動しているだけで精神は大体把握される。だから精神相応の服を着るのは自然だし、また物質相応に精神を鍛えるのも自然で、この両者の背伸び合戦を少しずつ制していく所に人間成長があり、ファイトクラブ的な物質主義批判はこの原理を無視してしまっている訳だ。


定義的に確かに精神は物質よりも優先するべきものだろう。だから僕は仮に裕福になってもNIGO的な家は造らないし、精神的な機能主義を基本に据えると思うけど、中身の伴わない外見も外見の伴わない中身も共につまらないのだから、両方の調和は最低限取る。その点でファイトクラブには同意できない。


大阪にはカジカジというファッション雑誌があるが、完璧な精度ではないだろうけど結構な精度でこの調和の取れた「生き様を感じる写真」が雑誌の巻末にいつも載っている。偶に紙一重な人間も載っているが、大体においてそこには物語がある。


物質主義を脱ぎ捨てるということはこの物語の匂いをかき消してしまうということだ。味はさておき無臭で街中に繰り出すということだ。その結果無知から来るものであれ意識的であれ生の充実が希薄化するから、そこで精神年齢はストップしてしまいかねず、少なくとも加速はもう起こらない。


人生に拍車を掛けるのは世界との調和だ。他者との芸術だ。独り善がりな「精神だけの加速」という現象も経験上確かにあるが、原則的にはそこに物質(外界)の要素も導入せざるを得ず、何故ならそれこそがその人間の内面を外に剥き出し、相補的に世界を織り成す生産的な「凌ぎ合い」になるからである。


誰だったっけ、名誉を嫌う哲学者であれその言説には自分の名前が載っていると。大げさに言うのならば、きっとそういうことなんだと思う。だから僕は多分、死ぬまでファッションが好きです。