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THINK ABOUT SOMETHING.

ラストステージとしてのあるがまま

自然状態を神聖視する思想がある。どうやらルソーはそう主張していないみたいだが、この考え方はある程度流通しているように思う。でも自然状態って言い換えればアンフォルメル(Chaos)だから、自由や幸福なんてそこにある訳がない。

 

自然状態の対義語はおそらく『終末状態』に当たる。それは人間が、言い換えれば唯一言葉を使える動物だけが、世界を導いていくその果ての世界を意味するが、僕は宇宙的事故が起こらない限り万物は進展する、という考え方だから、自然状態と正反対の方角こそを神聖視する。

 

自然状態は逆説的にフレームワークを有し、その対義語の終末状態を連続的に演奏することができない。ピアノの前に座らされて、ランダムウォークが名曲を描く可能性は、ゼロに等しいを超えてゼロなのだ。瞬間的に名曲の一部を鳴らしたとしても、連続的には滅びていくのだ。それがフレームワーク

 

翻って終末状態とはフォルム(Order)のことだから、フレームワークがなく、名演奏は永遠に鳴り響いていく。以前の言い方を借りれば『無限が無限に肯定されていく状態』で、それは三島が言うように『不滅』なのだ。有限と無限。滅びるものと滅ばざるもの。どちらを目指すべきかは明らかだろう。

 

また自然状態としてのあるがままであれ、終末状態としてのあるがままであれがあって、前者は天然の延長線上でのみ語られ、後者はハードウェア的な焼き付きの帰結として語られ、それは例えばキース・ジャレットの完全即興のようなものだ。即ち『天才には許されざるものがない』のだ。

 

どこへもどこまでも、いつでもいつまでも、肯定が止まらない。如何に動いたとしても全て肯定されることを宿命付けられた、聖なるあるがまま。これこそが終末状態・フォルム(Order)・無限なのであって、これらを全て反転させた対義語の方角に何を期待できるというのか。

 

本当に純粋な意味での天然からはキース・ジャレットは生まれない。素質はあったかもしれないが、それだけでは素養は備わらない。陰徳陽報ではないけど、陰で『かくあるべし』を焼き付かせ、陽の目を浴びる舞台で『あるがままであれ』とする。ここ(陰陽)を混同するからややこしくなるのだ。

 

プロセスとしてはかくあるべしでも、終末状態それ自体はあるがままであるべきなのだ。芸術家に限らず、人間としてそこまで行くことができれば、きっと世界は俄然楽しいものになるだろう。何を行っても肯定と紐付けられ、無限が無限に肯定されていくステージを、ただあるがままに歩いていく。

 

ちなみにベルセルクの『あるがままであれ』がフェムト的な意味での『かくあるべしとの合致』であるならば、それは無理だ。それは何の素養もない少年がキース・ジャレットの完全即興を描くことと同義で、そう考えると無数の矢がグリフィスに当たらなかった描写でベルセルクは終わったのかもしれないな。

今を生きる

『精神的に病む』ということの定義について考えたことがある。例えば家族全体で10のキャパがあって、しかし生きていく為に11のことをこなさないといけない場合、その中の誰かがキャパを上回る仕事(11-10=1)をこなさざるを得なくなる。

 

その割を食う人間の過剰分が強烈だったり、あるいは小さくても積み重なったりすると、それが病になるのではないか。後者は説明するまでもないが、前者は例えば離婚などで家族を失った人で、仮に貯金があって生活的キャパに問題がなくても、精神的キャパには一気にひびが入る訳だ。

 

そういう強烈な体験で一度精神が脆弱になってしまうと、元来のキャパに収まる生活に戻ったとしても、その時点でのキャパは目減りしているから、対応できなくなってしまう。その目減り分というのは要するに、内面的な苦悩であり、過去に囚われるとキャパを侵食してしまうのである。

 

僕の友達の昔からの持論で、最近になって考えが変わったものがあるのだけど、それはお金が死ぬまで無制限に使える権利があれば、ほとんどの精神病は治るというものだった。でも欲求が全て満たされるということと、苦悩が全てなくなるということは、別問題だったりもする訳だ。

 

例えばいくら自分が恵まれていても、世界が醜いのに何故自分だけ充足できるんだ、という人は実際に居たりする。その人の話を聞いた時に友達の考えは無理があるな、って思ったし、しかも世界の醜さなんていうのは終わらないテーマだから、そこに囚われる限り病も終わらないなと正直思ってしまった。

 

全てではないにせよ、キャパ以上のことを抱えている人間のドロップアウトが精神病であるならば、健常な頃の自分との差分(クラッシュ因子)に真摯に向き合うことが回復に繋がるのではないか。人間には感情があるから、筋道立てるだけの生き方は難しいけど、そこにメスを入れるべきなのではないか。

 

例えば失恋の後に精神的に病んでしまうとする。この時『失恋した』という事実以外の全ての環境が以前と同じものに固定されていた場合、その人の病んでいる原因=クラッシュ因子は失恋以外の何物でもない。

 

逆に言えば失恋という過去をどの時間軸に移植しても、そこから後の私生活は全て病的にクラッシュされる。それを更に逆に言えば、失恋した直後に失恋の過去を忘れられたら、失恋する以前の精神状態で私生活に臨める。過去は変えられないけど、その変えられない過去の有無だけで、人生は激変する訳だ。

 

もちろんスイッチを押したみたいに、過去を急に忘れるなんてことはできないし、どこまで行ってもそれは虚勢だ。しかしその虚勢が自然体をいつかオーバーライトするのであるならば、暗い過去に関しては全部忘れるフリをするに限る。暗い過去が形成された更に過去、そこと同じ精神状態で今に臨むのだ。

 

明るい過去だけを財産に、暗い過去は全てゴミ箱に。もちろんそういう生き方が砂上の楼閣であることは否めないが、『気丈に振舞う』ってそういうことだろう。変えられないものを変えようとして悩むぐらいなら、いっそのこと清算してしまった方がいいのである。

 

毎日『今を生きる』の精神で。そこに明るい過去が下積みされていけば、一つの輝かしい一貫性が生まれる。失恋しても、変わらずに強く居る。家族を失くしても、変わらずに強く居る。しかし明るい記憶だけは今に刻むから、人としてどこまでも強くなっていく。

 

それが本当に理想かどうかは分からないけど、メンタルの波を制するって、そういうことなのかもしれない。あっち行ったりこっち行ったりせず、宮沢賢治のなりたかった人のように、いつも笑っていられるような強さが僕にも欲しいし、その為には自分自身に嘘をつくことだって必要なのだ。

自分自身のオーバーライト

無意識的に行っていることは意識的に行ってきたことのハードウェア的な焼き付きだ、という説を過去に見た。例えば何の知識もなかった頃、僕は自転車のブレーキをかける時右手からかけていたが、リアブレーキ(左手)からかけるべきだということを知り、そこからはずっと意識的にそうするようになった。

 

いつも右手からかけていたから、最初はとても違和感があったけど、今となっては無意識的に左手が先に動くし、「ああ、これのことなんだな」とふとした時に気付いたのだ。要するに『癖付け』であり、『無意識のオーバーライト』であり、しかしそれはHDDと比べるまでもなく、要する時間は桁違いだ。

 

何が言いたいかというと、無意識的なもの、性格的なもののある部分を変えたい時、自転車で右手に対して左手を出したように、それが出そうになった時にその反対のものを意識的に出すようにすればいい。そうすればそれがハードウェア的に焼き付いていって、最後は無意識がオーバーライトされるのだ。

 

しかしこの無意識のメカニズムは、意識的な挙動によってのみ書き換えられる訳ではない。人は意識的にも成長するが、無意識的にも必ず成長する。過去に僕が言った『学んだ訳ではない漢字が読めるようになる』がその分かりやすい例だ。ハードウェアは絶えず焼き付いていくものなのだ。

 

それはミスチル風に言えば『知らぬ間に築いていた自分らしさの檻』であり、その自然形成された自我に仮に満足しているとしよう。しかし友達の言葉だけど、彼が「ある何かに満足することでそれ以上のものを曇らせることがある」と言うように、意識的に上を取っていく審美眼も要る訳だ。

 

無意識的な成長というのは、例えば成長期までの人間の身体が図らずとも結果論的に成長するようなもので、しかしそれを彫刻のような身体にまで持っていこうと思えば、意識的なトレーニングが欠かせなくなってくる。要するに、無意識的成長の伸び代は意識的成長の伸び代に劣るという訳だ。

 

多少の誤差はあれど、理想的な肉体、理想的な精神のイメージはある程度共通しているし、肉体にしろ精神にしろ、だらしのないものは基本的に憧れの対象にはならない。そしてその憧れの対象者自身は、肉体的な場合でも精神的な場合でも、意識的にそこに辿り着いたケースがほとんどだと思う。

 

ある程度共通しているということがどういうことかと言うと、誰もが理想の側に立てるということだ。全ての理想が隔たっている場合それは無理だが、オーバーライトするべきものの一定の法則性がそこにはあり、松ちゃんが小さい頃から落語を見ていたのもその踏襲で、純粋な天然の天才など存在しないのだ。

 

但し僕は精神の理想にベルセルクの『あるがままであれ』を置く。精神の無限性に際限なく実効性を持たせた状態のあるがままを、人間の最高峰とする。これは上述した意識的成長(『かくあるべし』)と相反するように思われるかもしれないが、この聖なる子供帰りはとてもテクニカルなものだ。

 

そういう意味で松ちゃんに限らず芸術家的な人間は、子供帰りのテクニックを意識的に積み重ねている。言わば『あるがままであること』を『かくあるべし』にしていて、これは三島の『決定されているが故に僕らの可能性は無限であり、止められているが故に僕らの飛翔は永遠である』に通じるものがある。

 

フォルム(Order)にはフレームワークがなく、無限ないしは永遠であり、アンフォルメル(Chaos)にはフレームワークがあり、有限ないしは一時であるという逆説。コンピュータのランダムウォークが後者であり、その見せ掛けの無限は人間の秩序的な無限に勝てないという逆説。

 

聖なる子供帰りの利権争い(最も大なる無限の夢見)がアートであり、それは最も深なる感動と紐付けられている。それをフォルム(Order)の究極とすれば、そこにはアンフォルメル(Chaos)の立場からは永遠に到達できない。彼等はブレイクダンスも踊らなければ、トリプルアクセルもできない。

 

そう考えるとフォルム(Order)は無限への途であり、アンフォルメル(Chaos)は有限の檻なのだ。無限が無限に肯定されていくのが前者の究極だが、後者の究極は、有限が肯定の条件を一切満たさないという最低の状態を指す。シュルレアリスムが正にこの状態で、誰もが同じように廃れていく。

 

シュルレアリスムは無限の相を持つようで似たり寄ったりに過ぎず、有限的。翻ってフォーマルな活字は逆に無限の相を持っていて、そのどれもが無限に肯定されていくという理想をある程度体現している。この違いはやはり大きいし、それがフレームワークの有無ということの真意なのだ。

 

結論としては、松ちゃんのようにフォーマルになる部分を自分の中に置くべきだということ。無限を無限に肯定させる為のオーバーライトは、苦労してでも買って出るべきだということ。身体が枷になる以上完璧ではないが、人間はある程度自由に変われるということを信じてみよう。

2045年問題論

物理学の世界では尺度の最小単位をプランク長として定義しているが、例えば狭い正方形があるとしよう。この正方形の中心から右半分の180度の範囲内で、無限に細分化した各角度の線を引くとする。すると右方向への移動量は、プランク長を更に細分化したものとして無限に観測することができるだろう。

 

また精神というものを考えた時、それは有限を無限に細かくした第二種の無限ではなく、宇宙のように無限に広がっていく第一種の無限(永久機関)であり、何故なら仮に精神が有限であるならば、物理的な寿命とはまた別の寿命が存在しなければならないが、誰もそれを見たことも聞いたこともないからだ。

 

例えば動物の寿命が10倍になる研究があるけど、あれが実用化されたとして、肉体の老化速度が1/10になるということであるならば、200歳でも20代の精神力はキープされると思うのだ。要するに精神が有限であればどこかで平均寿命に頭打ちが来る筈だが、その気配はなく、当面は肉体依存なのだ。

 

精神は肉体よりも大きく、真の無限だが、肉体に依存する以上有限に囚われ、しかしその有限もまた無限の分解能を持っている。言わば第一種の無限から第二種の無限への退行であり、しかし本質的には精神は真の無限である。これより大なるものはあり得ないし、それを宿せない人工知能などか弱いものだ。

 

僕は無限・自由・永久機関をほぼ同義で扱っているが、コンピュータは電気的に動く以上、間違いなく永久機関ではないし、生物の世代交代以外にそれを再現する術はない。彼等のおこぼれとして成り立つ人工知能は、有限且つ代償を求めるものであり、第二種の無限にしかなり得ないのだ。

 

結果2045年問題は否定される。第二種の無限を無限に大きくしたところで第一種の無限には勝てない。エミュレータが実機以上のグラフィックを描画するという例を出しても無駄なことで、実機がそもそも真の無限なるスペックなのに、そこから再構築したものが何故それ以上に大きくなることができよう。

 

即ち肉体的制約を受けないイマジネーションの領域で、コンピュータは人間に太刀打ちできない。そこにアートの必然性を見出すこともできるし、それこそが最も人間的な領域であるという逆説を唱えることもできる。これは以前の僕の説と何ら矛盾しないもので、生活にアートを宿すことを第一義とする訳だ。

 

逆に言えば肉体的に過ぎない領域に閉じ篭る限り、コンピュータは人を超え得るだろう。ちなみにイマジネーションの対義語をここではルーチンとし、決して右脳と左脳と言った旧来の定義にはしない。このルーチンワークに関しては、従来通りコンピュータに任せていけばいいのだ。そこはそのままでいい。

 

上手く言葉にできないが、要するに、肉体的制約を受けない領域が実効性を伴った場合、それはイマジネーションから来るアートとなり、逆に肉体的に過ぎない場合、ルーチンワークにしかならないのだ。イマジネーションの羽ばたきがないものが実効性を伴ったもの、それが旧弊な意味での『仕事』なのだ。

 

もちろんこの考え方――生活にアートを宿す生き方――が全ての仕事を救済するとは到底思えない。便所掃除にそれが適用できるとは思えないし、廃品回収にそれが適用できるとも思えない。2045年問題はそういうところだけを片付けて、残りの僕等は生活をアートにすればいいだけなのだ。

 

仕事を通じて人間として輝きたいという欲求は、思っているよりも幅広くのワークに宿せるが、ケースワークをアートワークに変える術というのは、昇り調子だけではなく、悶々とした葛藤や退行も含まれる筈だ。即ちイマジネーションは極めて広義であり、完璧への一直線だけが全てではない。

 

例えば画家が一気呵成に全てを描き切ることもあるだろうが、悶々とした葛藤や退行も傑作の因子になり得る筈で、そういう実効性を伴った精神活動だけが僕達の、人間の、芸術の交換不可能性を証明する。人間らしさはむしろそういう曖昧さから来るもので、そこでの闘いが、いつの日かのアートになるのだ。

 

だから膨らまないルーチンワークに人工知能を、膨らみ得るケースワークに人間とアートを。2045年問題はこの棲み分けを明確化するものであればそれでいいし、それ以上のことはできないというのが僕の直観だ。カーツワイルは無限より大なるものを目指すという実態について、一体どう考えているのか。

 

大きな声では言えないが、僕はそれは成立しないと予言しておこう。コンピュータに無限の臨機応変さなど成立しない。悩み、葛藤し、その末に自動書記するということもできない。そしてコンピュータが単体で自我を持つことも、絶対にない。彼等が永久機関でない限り、これらは全て不可能なことなのだ。

 

もの凄く分かりやすく言えば、CPUの性能がどこまでも大きくなっても、定格クロックがある以上無限そのものにはならない。有限が無限に大きくなっていっても、数値化された時点で無限ではない。無限とはアプリオリにそうであるもので、しかしコンピュータはアプリオリに無限ではない。これが全て。

要介護者のモラトリアム権

ここしばらくツイートを控えていたが、介護職員初任者研修を受講して思ったことを書く。先ず僕は記憶力が弱いし、体系的に全体を俯瞰する能力も不足しているので、甘い考えになっている可能性は否めないことを断っておくが、それでも書く。

 

僕はメンタルに病を抱えてどん底を経験した時、それまで好きだったハッピーなメロディーの曲が全部嘘に思えた。フレーズで言えば『陽はまたのぼる』とか『やまない雨はない』とか、そういう類の言葉がつらかった。とても上を見ることのできる精神状態ではなかったし、容赦ない言葉にしか感じなかった。

 

メンタルの世界では理解のない、または(いろんな意味で)余裕のない家族はともかく、基本的にはそういう人を下支えする。その人がその人自身の意志で変われるようになるまで原則として強要しないし、下支えというのは上を向かせることではない。最終的に意志を決定するのは他人ではなく、本人なのだ。

 

ところがだ。介護保険の理念だと『生活能力の維持または向上』ばかりがフォーカスされていて、その人の『上を向く余裕のなさ』はフォーカスされていないという印象があるのだ。それは裏を返せば制度の側の都合、家族の側の都合が優先されているということではないか。

 

要するに『強要』というとオーバーだけど、下支えせず、顎を持ち上げて上を向かせる。持ち上げることそのものに悪意はないかもしれないが、余裕がないのは高齢者も周り(家族や介護者)も一緒なのだ。そこで家族の側や介護者の側が一定の努力を見せず、本人にばかり努力させてたら、そりゃイヤになる。

 

ここでいう努力というのは『原因を見てそれをケアする』ということだ。対症療法ではなくてね。施設の実習にも行かせてもらったが、本音で言えばままごとをしているみたいで、僕で言えばハッピーな曲が絶望にしか感じなかった状況に酷似しているなと思ったし、全部が全部上辺に感じたのだ。

 

でもここまで書いておきながら分かってるんだけど、その原因へのケアというのは相当難しい。メンタルの世界でも僕が聞いたところによると、今や投薬治療がメインになっているみたいだし、じゃあどうなるかと言うと、制度が暗黙的に『そこまでケアする余裕はない』という態度を示す。

 

具体的にそんなことは言わないけども、自立支援という大義を掲げてそれを隠してしまう訳だ。すると割を食うのは高齢者の方で、しかし高齢者の側は向こうが大義を掲げている以上、反論がわがままという扱いになる。僕はそれこそ上辺で、それは違うと思う。怖いなとも思う。

 

隠し通してる側がまかり通って、何も隠していない本音の側が大義につぶされる。その(高齢者の)本音は大義の裏にある(制度側の隠している)本音に届かなければならないのに、その手前でシャットされる。高齢者の方は正直思考力も低下しているところがあるし、尚更そうなってしまう訳だ。

 

ただ僕が思うのは、メンタルの世界では投薬治療がメインなのだとしても、下支えの精神がある。顎を持ち上げて上を向かせるようなことはしないし、下を支えて、いつでも本人の意志が上向くことができるようサポートする。これが理念なのかは分からないけど、素晴らしいことだと思う。

 

それこそが周りの努力的な部分で、例えゆっくりでもステップを踏み続けることが本人の努力的な部分で、これらが釣り合って初めて健全と言えるのに、要介護者の場合、その本人の側の努力重視になってしまっている。自立重視なんて言葉はないかもしれないけど、それと重ね合わせて、正当化されている。

 

逆に周りの側の努力的な部分が本人に届けば、その本人も動こう、変わろうと思える時が来るかもしれない。僕は『時は薬なり』と思っているし、大体のことは時間が解決するものだと思っている。もちろんそこに前向きな意志がなければ変わらないけど、それは本人だけの問題ではないのだ。

 

但し自分の転機(=決定に到る道)なんて自分にしか分からないし、そこに他者が強制的に導くなんていうのは絶対に傲慢だ。決定するのは本人であって他者ではないし、その道中で決定権を剥奪するような介護が、メンタルの世界と真逆だと思ったのだ。決定までの道を迷うプロセスも一つの権利なのだ。

 

その傲慢さ(=周りの強要)が出た時点で切れられても仕方ないのに(これは決して逆切れではない)、上述したように、それ(=迷う権利の主張)は大義によってわがままという扱いになる。自立の尊重か意志の尊重かという問題がそこにはあり、しかし前者ばかりが優先され、後者の声は黙殺されている。

 

メンタルの世界では全てではないにせよ、『時間をかける』『本人を信じる』という精神があると思う。それが高齢者の介護においては欠けていて、例えば喪失体験で心の足に傷を負っているのに、その足で歩かせようとする。その先に行かなければいけないのは分かっていても、やり方というものがある訳だ。

 

吉本孝明は「ひきこもれ!」と言っていた筈だが、それは「迷う権利を取り戻せ!」という意味だと僕は解釈しているし、それを介護保険制度に当てはめると『モラトリアムカットへの異議』ということになる。要介護状態の高齢者の声なき声――精神的猶予の訴求――がそこにはある。

 

お歳を召されている部分があるから、あまり悠長なことは言ってられない面もあるかもしれないけど、理想と現実の間でかなりの隔たりがあり、理想からかなり下の方で妥協されているというのが僕の本音だ。そしてその妥協に高齢者の側の合意というか、意志反映はほとんどないと思うのだ。

 

僕の場合被害妄想だったけど、高齢者の場合喪失体験が引き金で地獄を見ている部分はあると思う。そこはメンタルの世界と同じ扱われ方をされるべきだと僕は思うし、理想論かもしれないけど、上辺のケアではなく、本音へのケアがなされるべきだと思ったな。

 

最後に本音で言わせてもらえば、本人の意志がそうであるならば、閉じこもるのもアリだと僕は思ってる。本人が努力して、周りが努力して、それらが釣り合った上での最後の結論がそうであるならば、それは本人の自由だと思う。そこで自立を目指すのが一番だよ、と言い切ってしまうのが僕は怖いのだ。

 

周りばかりが努力してそれならわがままだし、本人ばかりが努力してそれなら当然の結果だし、でも両方が釣り合ってそれであるならば、最後は周りではなく本人の意志が尊重されるべきだろう。とても仕事できる状態ではないという結論に到った人に仕事を強要しないように、最後は本人が選択するべきだ。

 

もちろんそうすると今度は周りの負担が増えるけど、お互いが最大の努力をした結果がそれであるならば、ある程度納得できる部分はあると思うし、それもせずに不満を漏らしたり強要を優先するのは違うと思う。ただ一方で介護疲れという側面もあるから、そこも包括的にケアできる仕組みが必要だとも思う。

 

結局全てを平均化することなんてできないし、どこかが必ず割を食うんだけど、それを食らってるのが現状高齢者なのではないか、というのが僕が今回受けた印象だった。『自立』を振り翳されると何も言えなくなるけど、それでも声なき声はちゃんとあるのだし、そこに真摯に取り組み視点も必要だと思った。

 

「自立に向けて頑張ろう?」という声と「あなたの頑張りもほしい」という声は本来等価。そこを等価にせず、割を食わせるのが問題なのであって、自立を目指すこと自体は基本的に正しいもの。だけど余裕のなさの押し付け合いをして、誰かが割を食う……それが介護の世界の実態だと個人的には思った。

 

精神病者にしたって要介護者にしたって、何もしたくない時はある。閉じこもりたい時もある。それは自分が精神に病を抱えた経験から分かることだし、その時に僕の意志反映(ひきこもりたい)が許されたように、要介護者の意志反映も、甘いかもしれないけど、ある程度許されるべきだと僕は思う。

 

例えば片麻痺で天涯孤独で、介護保険のお世話にならざるを得ないという時に、そこに上辺の希望しかなくて、実態的にはゲームオーバーというような空気。その原因の一つが自立を振り翳されることによる自由意志のシャットで、表現がややオーバーだが制度の言いなりにならざるを得ないという問題。

 

こんな問題をフォーカスしても仕方ないのかもしれないけど、周りの意志と本人の意志を等価(またはそれ以上)にしようとする精神がメンタルの世界にはあるのに、介護の世界ではその意識が乏しい。要は介護者の側に一定の線引きがあり、等価なところでその線を引かず自分に有利なところで線を引く。

 

これはおそらく要介護者には見透かされてると思うし、温度差というか距離感というか、それは確実に覚られてると思う。でもそれに反論できないような風潮があるから、実質ゲームオーバー。なんか同じところをぐるぐるしたけど、結局僕が言いたいのはそういうことだ。

自由意志の証明 Ver2.0

定義

自由とは系の根であると同時に、独自の原理の出発点である

 

公理一

宇宙の起源と生命の起源には時間差がある

 

定理一

世界は物的なもののみならず、霊的なものにも満たされている

 

証明一

宇宙の起源の直後は唯物論的であり、一切の生命は死んでいる筈だが、死から生が生じることはあり得ない為、実態的には何ものかが生きており、それは見せ掛けの唯物論を滅ぼすエーテル的なものの存在を黙示する。物性は観測可能であることから自明なる存在だが、霊性は観測不能であることから自明の存在に非ず、しかし生命誕生に到るまでの時間の差分――換言すれば独白者――は存在せざるを得ない為、それが唯物論との存在の差分を証明しており、物なるものならざるものとして霊なるものが、霊なるものならざるものとして物なるものが、この聖なる時間差の中でそれぞれ独自の系を宇宙万有に満たしていたことは明らかである

 

定理二

霊なるものはそれ自体で運動する永久機関である

 

証明二

自由とは系の根であると同時に、独自の原理の出発点である。この独自の原理は自由でありながらも、作用する側から反作用を受けるが、厳密には出発点そのものは全くの無影響であり、それは原理の独自性――聖なる無因果性――は虚無に由来するものだからである。仮に人間に自由があろうとなかろうと、世界が作用し続ける為には何処かに力点が必要だが、それは第一に天地創造の瞬間として存在するもので、しかしその初動者――即ち神――は物なるものとして行方不明であるか、あるいは霊なるものとして観測不能であるかのどちらかである。仮に前者が真である場合、第一種としての自由は天地創造と同時に散り、それ以降に一切の自由がなければ反作用の原理が働いて、力は減衰の一途を辿る為、世界が存続する為には第二種の自由が存在せざるを得ないことが導かれるが、それが非唯物論のもう一つの根拠に他ならず、この唯物論と非唯物論の差分こそが物なるものならざるものとしての霊なるものの力(それ自体で運動する力)であり、それは言い換えれば一切の前提条件なき初動から来る無限性ないしは無償性であり、もし有限であったり代償を求めるのであればそれ自体で運動できず、やがて廃れる。言い換えればそれは唯物論の世界であり、永久不滅――即ち永久機関――ではない。かくして反証的に霊なるものは永久機関であり、不滅の自由であることが導かれる。また後者が真である場合、第一種としての自由は天地創造以降も延長され得るが、そのような自由の行使者は霊なるものとしての独白者を意味するもので、万物がそれを親とする以上万物にもその自由が宿らざるを得ない(証明三を見よ)。即ち世界の誕生それだけでは神以外のものの自由は保証され得ないが、世界の中に永久機関足り得る原理――性交という名の天地創造――があることそれ自体が万物の自由を物語り、それは総じて創世の縮図を意味するのであり、『終わる天地創造』は神だけが自由(神性)を所有する世界観だが、『永遠の天地創造』は万物に自由(神性)が宿る世界観なのである

 

定理三

親要素の属性は子要素へと遺伝的に引き継がれる

 

証明三

証明一で示したように、生命は霊なるもののある帰結として誕生する。そしてある固体aが気体aに昇華した所でその属性は不変であるように(三態の一)、あるいは人から鳥が生まれたり、鳩から鴉が生まれることがないように、親要素の属性は子要素へと遺伝的に継承され、それが置き換わることはない。この霊なるものの属性とは永久機関――不滅の自由――であり、天地創造への意志――性交への意志――であり、従って親要素の霊なるものの子要素としての肉なるもの、即ち受肉を果たした生きとし生けるものは総じて自由に属する宿命なのである

 

結論

故に自由意志は存在し、従って森羅万象の業は万物にある

アプリのアイディア

できるかどうかはともかく、iOSとかAndroidのアプリを考えてみた。最近のスマホには音声認識が標準搭載されてると思うが、あれはあくまで平均的な声紋というか、平均的な音声の波形に合わせてしゃべらなければならず、お年寄りやかくぜつの悪い人とは相性がよくない。

 

そこで自己音声を登録し、それをボタン化するというシンプルなアイディアを考えた。例えばスマホの設定を呼び出したい場合、「せってい!」と音声登録するとそれが声紋となり、以降『自己音声が基準で音声認識できる』という状態になり、設定を呼び出せる。要するに、平均に合わせなくてよい訳だ。

 

「しょうでんりょく!」と音声登録すれば、以降自分に合った発音をするだけでBluetoothWiFiを切れるし、「ついったー!」と音声登録すれば、以降自分に合った発音をするだけで紐付けたツイッターアプリを起動できる。つまりランチャーにもなる訳だけど、敢えてこれを選ぶ理由が不十分。

 

それを解消する為に、ホーム画面のアンロックをこの登録した音声ボタンと紐付けるのだ。例えばホーム画面を立ち上げて、アンロックして、「しょうでんりょく!」と発音してたら三度手間だが、登録した音声ボタンは『それ自体がアンロックのキー』となり、ホーム画面から一気にアクションに飛べる訳だ。

 

例えば「しょうでんりょく!」でもキーになるし、「ついったー!」でも「せってい!」でもキーになる訳だ。これでランチャーアプリとの差別化もできるけど、もう一歩推し進めて、登録した音声ボタンをあらゆるアプリで共用できるようにし、現在実行中のアクティブアプリと音声ボタンを紐付ける。

 

例えばツイッタークライアントを起動中に「すすむ!」と言うと、ページがスクロールされ、あるいは電子書籍ビューアを起動中に「すすむ!」と言うと、次のページに移動する。そしてその「すすむ!」という音声登録は一回ずつ別々に行う必要はなく、ここまでに書いた仮のアプリに登録すればそれでOK。

 

言わば極めて個人的な自己声紋データベースを作り、それを全てのアプリが参照し、且つ同じ音声ボタンでも各アプリ(アクティブアプリ)ごとに別々のアクションが実行される『中間アプリ』を作るという訳だ。これでおじいちゃんのふがふが声でもRedEyeでエアコンのON/OFFができようになる。

 

但し街中で音声コマンドを使えるかと言われればそれは疑問で、恥ずかしさが先立つし、基本は家用になるだろう。でもこの『自己音声を登録しそれをボタン化する』というアイディアはゲームの世界でも応用が利きそうなんだよな。ボイスコマンドというのは大昔に考えたけど、あれの精度が格段に上がる筈。

 

まあいくら語ったところで、それを作るスキルは全く持ち合わせていないが……orz